「7年の終わりごとに、負債の免除をしなければならない」(1節)。このような規定を定められるとは、なんと主は素晴らしい方でしょう。貧しいもののための規定は、神様の心が行き届いています。一方、主は、必ず、あなたを祝福すると約束しておられます。
一見、矛盾しているような記述もありますが、聖書は、矛盾した記述を含むところが、ひとつの特徴であると感じます。例えば、今日の個所では、「そうすれば、あなたのうちには貧しい者がなくなるであろう」(4節)と記されていますが、他方、「貧しい者が国のうちから絶えることはないであろう」(11節)とも記されています。私たちが生きている現実の世界は、みことばの約束の世界と、罪人たちの現実の世界が共存しているのではないかと思います。どちらか一方だけでなく、つねに、共存していると思います。だから、両方の記述が必要になるのだと思います。
「あなたの敵を愛せよ」も、同様だと思います。「敵」がいるのも現実です。一方、敵をも赦す「愛」が存在するのも現実です。もし、敵を赦す愛があるなら、敵などいなくなるはずですが、この地上での人生においては、矛盾が共存している世界であると思います。
私たちが神の民として生きるには、この矛盾の中で、神のみことばに生きると決断することです。矛盾をみれば、いくらでも、不信仰の種が見出せます。不信仰になる理由を見出すことが出来ます。しかし、神の民は、神のみことばの約束に生きる民です。
今日の個所でも、「あなたの心を閉じてはならない。また、手を閉じてはならない。進んであなたの手を開き・・・」(7節、8節)と記され、さらに、「あなたの心に邪念をいだき、・・・物惜しみして、これに何もあたえることのないように気を付けなさい」(9節)と記されています。私たちの心の中にも、相対する、矛盾する思いが共存しています。神様は、そのことを良くご存知です。ですから、わざわざ、気を付けなさい、と語られています。
「必ず彼に与えなさい。また与える時、心に未練を持ってはならない。このことのために、あなたの神、主は、あなたのすべての働きと手のわざを祝福して下さる」(10節)。どちらかというと、「邪悪な思い」、「物惜しみ」、「未練」が私たちの思いを支配してしまうことが多いと思われます。だからこそ、主のみこころ、主の手の祝福に、私たちの思いを向けるように、勧めています。
神の民は、神のみことばの約束を信じて、決断し、実行することが求められています。すべての国民が、みことばを完全に実行することがないことも現実の世界です。だから、「貧しい者が国のうちから絶えることはない」(11節)のです。しかし、一方で、神のみことばの約束を信じて、行動する民が、神の手のわざを体験する特権にあずかるのです(10節)。
神のみことばの約束を信じて実行するとき、私たちは神のみわざを見ることが出来ます。それが、神の民の相続の恵みです。私たちは、神ご自身を相続地としています。神の約束のことばはみな、私たちの相続分です。同時に、欲望という敵が共存しています。その欲望に打ち勝ち、勝利する力を主は与えてくださいます。私たちが生きているのは、創造主の栄光をあらわすためです。みことばの約束を信じて、神のみわざが現れるなら、神の栄光をあらわす生き方をしていることになります。
今日の結論です。神の民は気前が良い人たちです(10節、13節、14節)。わたしも、気前の良いひとになりたいです。
清宣教師