前半(1節~8節)は、レビ人が受けるべき相続地について記されています。後半(9節~22節)は、預言者が与えられるという約束が記されています。
レビ族の人たちは、イスラエルの12部族のようには、相続地の割り当てを受けることができませんでした。その代り、「主ご自身が、彼らの相続地である」(2節)という約束をいただきました。具体的には、12部族の民たちからの主への捧げ物によって生活し、12部族の民たちに代わって、主に仕える奉仕に専念することが出来ました。このような素晴らしい仕組みは、信仰に燃えたダビデ王の時代には、とてもよく、運営されて、民たちも豊かな祝福をうけて、イスラエルの国も安定していました。しかし、やがて、イスラエルの国は分裂し、王たちが偶像礼拝に走るようになり、12部族の人たちが主への捧げ物を怠るようになり、レビ人たちの生活がなりたたなくなっていきました。そして、泥沼の中へと入って行きました。どんなに良い仕組みも、それを運営する人たちの手によって、良くもなり、悪くもなります。信仰に燃えている民は、十分の1の捧げ物を実行しましたが、打算的な民は、十分の一の捧げ物をおろそかにしました。信仰に燃えている民は、安息日をたっとびましたが、打算的な民は、安息日をおろそかにしました。私たちは、神の民、神の家族、天国の国籍をもつ者です。神のみことばに生きる民です。神のみことばを尊ぶことが、世の光、地の塩としての証しです。
後半は、周りの民がしているような占いやまじない、呪術、霊媒、口寄せなどに関わりをもってはいけないと命じられています。これらは『異邦の民の忌み嫌うべき習わし』(9節)と言われています。テレビでも、新聞でも、占いが流行っています。また、霊場のようなスピリチュアスポットを巡るツアーもあります。どんどん、いわゆる異教的な霊への関心が高まっています。その中で、大事なことが語られています。「あなたは、あなたの神、主に対して全き者でなければならない」(13節)。私たちが、彼らに対して、何か、役に立つことができるとすれば、私たちが、主に対して全き者でなければなりません。悪霊とのかかわりを持ちながら、彼らを救うことは出来ません。主イエスの御名による権威に立つことが出来るのは、全き者です。キリストの義こそ、まったき義です。ですから、キリストの血潮によって完全にきよめていただきましょう。主イエス・キリストの名によってのみ、悪霊を追い出し、勝利することが出来ます。
なお、私たちが占いの類に頼らなくてもよいように、主は預言者を与えて下さると約束しておられます(15節)。その預言者の中の預言者こそ、イエス・キリストです。イエス様は、「ことば」であり、「いのちのことば」です。預言者とは、「神のことば」を預かるものです。しかし、イエス・キリストは、「神のことば」、そのものです。
現代において私たちが直面する問題は、「不遜にも」偽りの預言をするものがいるということです。「不遜にも」とは、「うぬぼれて」ということばです。実際、私も、偽の預言をするクリスチャンと呼ばれる人たちに出会った経験があります。あるいは、普通のクリスチャンでも、主のことばを誤用する人がいます。実際の最終的な責任は、それを聞く人の判断によります。私たちは、真実を判断できるように訓練される必要があります。一方、終末の時代の特徴と言われていますが、「私はメシヤである」と語る人が教会に来られることがあります。私が西多賀教会の牧師、宣教師になってから、2度ありました。聖書を自分だけで読んでいると、自分がメシヤではないかというサタンの誘惑が来るようですね。ある意味、人間の生まれつきの「うぬぼれ」という心の奥底にあるものが、隠れた形で唆すのかも知れません。
私たちは、礼拝とデボーションを通して、主のみことばに親しむ中で、何が偽りであり、何が真実であるかという訓練をうけています。
清宣教師