約束の地を目前にして、そこでの生活の心構えについて、モーセは力強く語りました。昨日の6章では、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(6章5節)とあり、「これらのことばを、あなたの心に刻みなさい」(6章6節)とありました。また、「主が正しい、また良いとみられることをしなさい。」(6章18節)と語りました。そして、きょうの7章では、その約束の地には、7つの異邦の民、しかも、強力な異邦の民がそこを支配していることを指摘しています(7章1節)。
1節~6節では、イスラエルの民は、カナンの地に住んでいる民とは、決して妥協してはならないこと、聖絶すること以外にありえないことが記されています。もしも、イスラエルの民が、その異邦の民と妥協し、神のみこころから離れるなら、イスラエルの民といえども、異邦の民と同じように神の裁きを受けるという警告が記されています(7章4節)。主なる神は、イスラエルの民を「ご自分の聖なる民」として選ばれました。それは、イスラエルの民が、どの民よりも数が多かったためではなく、むしろ、最も数が少ない民でした(7節)。このような特別の恵みに預かった民として、イスラエルの民は、主との契約を守り、主のみこころを行う使命が与えられました。そして、イスラエルの民が、神の民として、神のことばに完全に従うなら、あらゆる物質的、経済的な祝福にあずかることができるのです(13節)。また、子供たちが祝福され(14節)、すべての病気からも守られるのです(15節)
17節~26節では、約束の地に住んでいる7つの民を、徐々に追い払うことが出来ることを、主なる神が約束しています(22節参照)。瞬時にではなく、徐々に、追い払われるのです。これもある意味、不思議なことです。しかし、そこには意味がありました。約束の地には、いろいろな果樹や作物が栽培されていました。家畜も飼われていました。ですから、急激な変化は好ましくなかったのです。イスラエルの民は、約束の地に住んでいた先住民たちから、ある意味、バトンタッチを受けるのです。つまり、先住民が手をかけて世話をしている作物や家畜が管理できないような状況に長期間置かれることがないように、少しずつ、少しずつ、イスラエルの民は、約束の地を占領していったのです。なお、約束の地に入ったなら、決して、偶像礼拝に陥ってはならないことを繰り返し、厳しく、戒めています。
私たちクリスチャンも、神の民です。そして、すでに、神の子とされ、神の民の一員とされて、日々、御国の民の一員として生きるよう召されました。その使命はなんでしょうか? 約束の地に生きるとは、みことばに生きることです。みことばに生きるとは、神のみことばである聖書の真理に生きることです。神の約束のことば、ひとつひとつのうちに、生きることです。神のことばを信じて、その中に生きること、いのちのパンであるキリストのみことばを食べて生きることです。
しかし、その約束の地には、霊的な意味で、すでに7つの強力な異邦の民が住んでいて、敵対してきます。それは、私たちの生まれつきの自我であり、様々な肉の欲望です。そして、妥協を迫ってきます。しかし、私たちクリスチャンは、カナンの約束の地に入るイスラエルの民たちのように、そこに住んでいる敵と、絶対に妥協してはならないのです。つまり、私たちクリスチャンは、生まれつきの様々な欲望や習慣や考えと訣別して、これらの欲望を聖絶する以外に、生きる道はないのです。この申命記の7章は、そのことを、私たちに教えています。
私たちのうちにある生まれつきの性質、不信仰、疑い、恐れ、不安、自己満足、自己愛、孤独、空しさなどは、私たちの人生を支配しようとして、私たちを攻撃してきます。そこで、私たちはクリスチャンとして、神の約束のことばに生きることを選ばなければなりません。そのことを通して、神のみことばが私たちの人生そのものの一部となります。私たちは小さなものですが、宝の民です。私たちは、御霊の働きにより、自分自身の生まれつきの敵(肉)に勝利し、この世の力(価値観)に勝利し、世に対して創造主の栄光を輝かす者となるのです。
清宣教師