4節において、「あなたは心の中で、『私が正しいから、主が私にこの地を得させて下さったのだ』と言ってはならない。」と記されています。そのあと、イスラエルの民が、どれほど、主に逆らったか、繰り返し、実例を挙げて警告しています。「あなたはうなじのこわい民である」(6節)とも言われています。そして、「わたしがあなたがたを知った日から、あなたがたはいつも、主にそむき逆らってきた」(24節)と結んでいます。このような頑なな民にもかかわらず、モーセはイスラエルの民のために、いのちをかけて執り成しました(25節~29節)。そして、その執り成しのゆえに、イスラエルの民は、滅びから免れました。
イエス様の時代には、パリサイ人と呼ばれる宗教的に熱心なグループがありました。彼らは、自分たちは律法を守っているので、神の前に義とされて当然という考えを持っていました。そして、取税人や遊女たちを、神から見放されている罪人と見なしていました。しかし、パリサイ人は、神の前に認められることはありませんでした。なぜなら、自分たちを正しいとしたからです。
私たちクリスチャンはどうでしょうか?バプテスマを受ける時は、自分が罪人であることを自覚しています。しかし、信仰生活が、5年、10年、20年と経過するうちに、次第に、自分を義とする傾向があるように思われます。その表れはどこにあるでしょうか?他人を裁くことに表れてきます。イエス様は、憐みは好むが、犠牲は好まない、とおっしゃいました。ところが、私たちは、憐みよりも、犠牲を好む傾向があります。それが信仰的に見えるからです。しかし、それは宗教的な熱心によるものです。イエス様のみこころに沿うものではありません。いつのまにか、私たちもまた、自分を義とする罠に陥ってしまうのです。
私たちが救われたのは、ただ、主の憐みによるものです。私たちもまた、うなじのこわい民であることを自覚する必要があります。このような頑なな民ですが、モーセがいのちがけで執り成ししたように、神の御子イエス様は、文字どおり、ご自分のいのちをかけて、私たちのために執り成しをしてくださいました。ただ、ただ、私たちが救われたのは、恵みによるのであり、自分の正しさによるものではありませんでした。私たちは知らない間に、高慢になってしまうものです。自覚症状なしに、高慢になってしまうのです。私たちは、ただ、主の恵みによって救われました。
「私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。――キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました」(エペソ人への手紙、2章3節~6節)。
今日も主の恵みを感謝します。主が共にいてくださいますから感謝します。
清宣教師