1節~4節:犯罪者といえども、人前で卑しめられることがないように、40回を超えて、鞭うつことは禁じられています。つまり、神のかたちに造られている人間の尊厳は、守られなければならないのです。刑罰は刑罰ですが、創造主の前に、創造主の似姿に創造された人の尊厳を損なうことはゆるされていないのです。また、家畜と言えども、その働きに似合う報酬を与えてやらなければならないのです。
5節~10節:「兄弟がいっしょに住んでいて、そのうちのひとりが死に、彼に子がない場合、死んだ者の妻は、家族以外のよそ者にとついではならない。その夫の兄弟がその女のところに、はいり、これをめとって妻とし、夫の兄弟としての義務を果たさなければならない。そして彼女が産む初めの男の子に、死んだ兄弟の名を継がせ、その名がイスラエルから消し去られないようにしなければならない。」(5節、6節)と記されています。これは、「レピラート婚」と言われる制度です。神から与えられた相続地と家系が、途中で途絶えることがないように配慮された制度です。それを拒否する場合は、公けの場で拒否する必要がありました。
11節~12節:目的は良くても、手段を選ぶ必要があるということです。
13節~16節:重量計の分銅、あるいは、容積をはかる枡は、正確なものでなければならない、いわゆる度量衡は正しくなければならないと述べています。これは社会の秩序であり、これが崩れると、社会全体の経済も崩壊してしまうからです。
17節~19節:過去の歴史において、アマレク人たちが、イスラエルの民たちに対してなしたことを忘れてはいけないと言われています。アマレク人たちは、イスラエルの民が、エジプトの奴隷の状態から脱出して、荒野を旅している時、その後部から襲ったのです。つまり、イスラエルの民が行軍している時、彼らは正規の軍団ではなく、いわば非戦闘員である婦女子がふくまれていました。荒野を行軍する中で、幼子を抱えた母親や、病気や障害を持つ人たち、高齢者のひとたちなど、体力のない者たちの足取りは重くなり、次第に行列のうしろになり、最後には、行列から離れて、落伍する者もありました。アマレク人たちは、その落伍者や弱っている者たちを、背後から襲って、ことごとく、餌食にしたのです。ですから、アマレク人のことは、決して忘れてはならないと命じられています。
この章では、イスラエルの民が、神の民として生活するなかで、やはり、創造主の似姿につくられた人間としての自覚をもち、細部に至るまで、その尊厳を適用するように求められていることを示しています。これらのなかで、レピラート婚やアマレク人に対する復讐などは、当時の社会に限定されたものであると考えられます。
新約時代に入り、イエス様が山上の説教で、御国の民としての生き方を改めて示されたことは、私たちにとって必要なことでした(マタイの福音書5章13節~16節参照)。「あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」。
聖なる主を仰ぎ見て、聖なる民とされた恵みをもう一度、かみしめて、生活したいと思います。塩気を保ち、光としての本質を保たせてください。わたしの古い自我は、キリストによって十字架に釘づけにされました。御霊のいのちによって、きょうも、わたしを生かしてください。
清宣教師