ヨルダン川の西側にいた異邦の王たちはイスラエルの動向を知るために、多くの斥侯を遣わしていました。それで、彼らは、ヨルダン川の水が、主の御手によって堰き止められるという奇蹟が起こったという報告を受けることになりました。この報告は、異邦の王たちの望みを打ち砕きました。王たちの心はしなえ、勇気すらなくなってしまったようです。
さて、主は、ヨシュアに対して、イスラエルの民に、割礼を施すように命じました。エジプトを出て、40年間の荒野の旅の途中において生れたこどもたちは、割礼をうけていなかったようです。そこで、割礼が施された後、民たちは1月14日の夕方、過ぎ越しの祭を行いました。ヨルダン川をわたって、約束の地に入りましたが、エリコの町の手前にある、エリコの草原で過ぎ越しのいけにえを捧げたのです。そして、過ぎ越しの翌日から、約束の地の産物である、炒り麦を食べるようになりました。同時に、これまで、荒野の旅の40年間、民たちを養ってくれたマナが降るのが止みました。
さて、ヨシュアがエリコの近くにいたときに、ひとりのひとが現われました。抜身の剣をもち、ヨシュアの前方に立ちましたので、敵か、味方かわかりません。ヨシュアがその人に尋ねると、履物を脱ぐように命じられました。ヨシュアがひれ伏して礼拝することを許されたことをみると、主ご自身であったことが分ります(御使いの場合は、自分が礼拝を受けることを拒否します)。
こうして、イスラエルの民たちは、ヨルダン川を渡り、約束の地に入りましたが、これから後のことを考えると、いろいろ、心の準備、霊的な準備をする必要がありました。それは神の民としての霊的な準備です。まず、第1に、全イスラエルが割礼を受けることでした(すでに割礼を受けていた壮年たちは別として)。一人の例外もなく、神の民である、というしるしを、それぞれの身にしるしたのです。そして、共同体として、過ぎ越しの祭をおこなったのです。小羊の犠牲なくして、民たちの救いはなかったことを改めて覚えるためでした。そして、最後に、司令官であるヨシュアの霊的な武装が必要だったのです。主の軍勢の将とは、イエス様のことであると思われます。抜きの剣とは、鞘から剣を抜いて手に持っている状態です。つまり、戦闘状態にあることを意味しています。主ご自身が、いつでも、敵と戦う準備が出来ていることをヨシュアに伝えたのでした。しかも、ヨシュアが司令官であったとしても、真の意味での最高司令官は、主ご自身であることを示されたのです。
ある意味、私たちのまわりの人たちはクリスチャンを見ています。私たちの行動は知られています。主にある誠実な生活をするなら、それは知られています。あるいは、臆病な生活をするなら、それも知られています。主に対する大胆な信頼をもって生活しましょう。そして、主の御業を見るようにしましょう。それは、まわりの人たちにも明らかになるのです。主にはご計画があります。出エジプト、荒野での生活、そして、約束の地への入国です。そして、それぞれにふさわしい食物を準備して下さいます。いまは、荒野での生活ですから、マナをいただくことが大切です。天の御国に入国したらマナは不要です。でも、今は、毎日、天からのマナが必要です。1日1章、あるいは、デボーションのみことば、日ごとの霊的な食べ物が必要です。
きょうも、日ごとの食物をいただきましょう。「まことに、その人は主の教えを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。」(詩篇1篇2節~3節)。
清宣教師