ヨシュアは年を重ねて老人になっていました。おそらく、この時、90歳を超えていたと思われます。そこで、主が語られました。ねぎらいの言葉と思ったら、違いました。予想もしなかったことばでした。「あなたは年を重ね、老人になったが、まだ占領すべき地がたくさん残っている。」と語られたのです。驚きました。主の前では、年齢は関係ないようです。そして、主は、カナンの約束の地の南の地域から北に向かって、地中海の沿岸沿いに、レバノンまで、占領すべき地の名前を、ひとつ、ひとつ、列挙されました。そして、「わたしは彼らをイスラエル人の前から追い払おう。わたしが命じたとおりに、ただあなたはその地をイスラエルに相続地としてくじで分けよ。」と言われて、さらに、「あなたはこの地を、九つの部族と、マナセの半部族とに、相続地として割り当てよ。」と命じられました。
ヨルダン川の東の地域は、ルベン族、ガド族、マナセの半部族に相続地として分け与えられたものであること、ヨルダン川の西の地域は、9部族とマナセの半部族に分け与えられたものである事を、再確認しています。また、レビ部族には、主ご自身が彼らの相続地であり、カナンの地には相続地をもたないことも、改めて、確認されています。
さて、改めて、ヨシュアの身になって考えてみました。すると、むしろ、これは力強い励ましのことばであるということが分りました。ヨシュアは、90歳という年齢のことを考えて、自分は老齢であると自覚していたようです。ところが、主は、「あなたにはやるべきことがある」と語られたのです。しかも、「たくさん残っている」と言われたのです。つまり、まだまだ、主はヨシュアに期待している、と明言されたのです。人間的には老齢でも、まだ、あなたにはやって欲しいことがたくさん残っている、と言われたらうれしいです。特に、80歳、90歳の人だったら、うれしいと思います。
イザヤ書40章には、次のように記されています。「ヤコブよ。なぜ言うのか。イスラエルよ。なぜ言い張るのか。『私の道は主に隠れ、私の正しい訴えは、私の神に見過ごしにされている。』と。あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」(イザヤ書40章』27節~31節)。
使徒パウロは、次のように言っております。「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。」(ピリピ人への手紙、3章12節~14節)。
きょう、私たちも、うしろのものを忘れ、ひたむきに、前のものに向かって進みましょう。古い自我は、墓の中に葬り去り、新しい内なる人において、霊的に豊かに成長しましょう。御霊に満たされた人生こそ、私たちが相続すべき人生です。
清宣教師