今日、士師記1章を迎えました。節目はとても大切です。心機一転、主にあって、後ろのものを忘れ、前のものに向かって前進するチャンスです。
士師記は、文字通り、士師たちの活躍した時代の歴史を記した書物です。同時に、預言的な歴史書であるとも考えられています。
例えば、12人の士師たちの出身地をみると、以下の様になります(聖書に明言されていませんが、学者によって推測されているものも含みます)。
オテニエル(ユダ)、エフデ(ベニヤミン)、シャムガル(シメオン)、バラク(ナフタリ)、ギデオン(マナセ)、トラ(イッサカル)、ヤイル(ガド)、エフタ(ルベン)、イブツァン(アシェル)、エロン(ゼブルンン)、アブドン(エフライム)、サムソン(ダン)です。つまり、イスラエルの12部族を代表して、各部族から1名ずつ、選ばれていることがわかります。別々の割り当て地に定着した12部族が、ひとつのイスラエルというまとまりでとらえられています。
1章1節の「さて、ヨシュアの死後」とは、「士師記」全体の序論のことばです。そして、1章1節の「イスラエル人は、主に伺って言った。・・・」から2章5節は、ヨシュアが存命中の出来事を中心とした回想の記録となっています。1章1節の後半から1章21節までは、ユダ部族とシメオン部族によるカナン征服の記録です。1章22節~36節は、北の10部族によるカナンの征服の記録です。
きょうの1章で何度も強調されていることは、「○○は彼らを追い払わなかった」、「○○を占領しなかった」という表現です。そのことが、イスラエルの将来の禍根となるのです。イスラエルの各部族は、比較的、敵が弱く勝利しやすい所から占領していったようですね。それで、最後に残ったのが強敵のいるところです。そこで、各部族は、主の命令に従わず、敵と妥協してしまいました。
私たちも、肉との闘いにおいて、戦いが長く続くと、この辺でいいだろうと、妥協することが多いように思います。肉の思いは、無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしり、妬み、悪意、不品行、好色、党派心、分裂、分派、遊興などなどです。その中でも最も大きいのは、偽りの自我、自尊心ではないかと思います。強敵は最後まで残ります。しかし、妥協することなく、最後まで、戦い続けるように命じられています。
士師記は、ヨシュア記とは対照的です。士師記は、主を恐れる良き指導者を失ったイスラエルの悲劇を反面教師として描いています。ある意味、ヨシュア記と対照的であり、ペアになっています。主を恐れる良き指導者の存在の重要性が伝わってきます。
私たちのからだは、聖霊の宮です。父なる神様は、私たちの霊をイエス様の義の衣によって覆って下さり、聖霊様によって治めてくださいます。まだ、克服していない分野において勝利できるように祈りましょう。イライラに勝利する。妬みに勝利する。恐れに勝利する。劣等感に勝利する。敵意に勝利する。無気力に勝利する。高慢に勝利する。暑さに勝利する。孤独に勝利する。金銭的な欲望に勝利する。そして、偽りの自我に勝利する。主が私たちの霊を、御子イエス・キリストの義の衣をもって覆って下さり、もろもろの敵が私たちの霊を支配することが出来ないようにして下さい。
きょうも、天国の1日を感謝いたします。
清宣教師