士師記も、いよいよ最終章を迎えました。最後のことばにまとまられていますが、「その頃、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた」(21章25節)と記されています。21章では、ベニヤミン族が消滅の危機にあることを、なんとか打開しようとしてイスラエルの指導者たちが知恵を絞っています。そして、結局、考え付いた案が、ヤベシュ・ギルアデの町の住民を、若い処女だけを残して、聖絶するということでした。そして、ベニヤミンの中で残っていた男たちに、ヤベシュ・ギルアデで得た処女400人を与えました。それでも、ベニヤミンの男たち600人には足りなかったので、シロで行われた祭を利用して、200人の処女たちを略奪することを勧めました。
ギブアでの暴行事件に端を発した一連の出来事でしたが、イスラエルの指導者たちは、その解決にあたり、ベニヤミンに対する報復戦争、そして、ベニヤミン族の絶滅の危機という状況を引き起こしてしまいました。きょうの21章では、「誓い」ということばが3回も出てきます。彼らは、血気にはやり、愚かな誓いをしてしまいました。そしてその誓いを取り消すことをせず、ヤベシュ・ギルアデの人たちの殺戮により解決をはかり、それでも足りない時に、今度はシロの処女たちの略奪という手段で埋め合わせをはかりました。
最後の24節、25節に、「めいめい」ということばが、3回出てきます。創造主を礼拝することから離れる時、めいめいが主人公となり、自分の目に正しいと見えることを行う以外に方法がなくなってしまいます。その結果、とんでもない犠牲を他の人に強いることになったりすることが分ります。士師記では、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行えば、偶像礼拝、道徳的堕落、無秩序、混乱が社会全体を支配する結果になることを示しています。
しかし、その中にも、主の憐みがあり、12人のさばきつかさ(士師たち)を起こして、敵の手からイスラエルの民を救い出してくださいました。そして、今回、士師記を終えることになりますが、サムエル記に入ると、新しい王国の時代の到来を告げるサムエルが登場してきます。暗黒の時代に、一筋の光が輝き始め、士師の時代は、幕を下ろすのです。私たちの生きる道は、創造主を礼拝すること、そこからすべての祝福が始まります。
「あなたの道を主に委ねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げて下さる。」(詩篇37篇5節)。主よ、1日1章も、士師記の学びを無事おえることができました。主に感謝いたします。
清宣教師