4章1節では、「サムエルのことばが全イスラエルに行き渡ったころ」と記されています。ところが、そのあと、4章をすべて読み終えてみると、どこに、その影響があるのか、見出すことが難しいように感じます。サムエルを通して、主のことばが全イスラエルに行き渡ったなら、どうして、このような愚かなことが起こるのか、理解することが難しいとは思いませんか。また、サムエル自身が、このような大事件の中で、一度も姿を現した形跡がないことも不思議ですね。ということは、おそらく、サムエルという預言者が全イスラエルに認知されたということで、まだ、イスラエル全体は、以前からの祭司エリや息子たちを中心にした形骸化された宗教の中に留まっていたと考えられます。
ペリシテ人がイスラエルに対して攻撃をしかけてきました。イスラエルは、ペリシテ人を迎え撃つために出て行きました。しかし、敗北して約4千人が戦死しました。そこで、イスラエルの民や長老たちは、なぜ、ペリシテ人に対して敗北したのか、考えました。しかし、その結論は、非常に安易なものでした。主が共におられなかったためだ。だから、シロから契約の箱を持ってこよう、ということでした。まさに、主なる神を、自分たちの意のままにコントロールできるという発想でした。これは、まさに、偶像に対する発想でした。偶像を自分たちで作り礼拝する偶像礼拝は、自分の意のままに神々をコントロールできるというメリットがあります。イスラエルの民は、偶像礼拝を禁じられていたにもかからわず、主の契約の箱をもって、主なる神を、自分たちの意のままにコントロールしようとするものでした。その過ちの当然の報いは、惨憺たる敗北として返ってきました。非常に激しい疫病で、3万人が倒れ、エリの二人の息子、ホフニとピネハスは戦死し、神の契約の箱も奪われました。これを聞いた祭司エリは、あおむけに落ちて首の骨を折って死にました。
祭司エリがイスラエルを裁いていた期間は40年でした(18節)。ピネハスの嫁は、契約の箱が敵のペリシテ人の手に渡ったことを聞いて、「栄光がイスラエルから去った」と表現しましたが、これも、偶像礼拝の特徴のひとつです。目に見えるもので判断します。しかし、明日の5章で明らかになりますが、偶像ではない、生きておられるイスラエルの主なる神は、ひとり、ペリシテの地でご自分の御力と尊厳を現されます。
今日の個所は、自分の都合の良いように神を利用しようとする宗教の特徴がよく表れています。私たちは、宗教ではなく、生きておられる神を礼拝しています。私たちは被造物であり、創造主なる神を礼拝するものです。創造主のみこころの中に生きる者です。私たちは創造主の御計画の中心を生きる存在です。ですから、創世記1章の創造の6日間の最後に、創造の冠としてつくられました。しかも、創造主なる神のかたちにかたどって造られました。ところが、人間は宗教を生みだし、御札に頼ったり、占いに頼ったり、堕ちるところまで堕ちてしまいました。
私たちの信仰の人生も、形骸化した宗教儀式の中に堕ちることがないように、御霊に生きる人生でありますように。目に見えるものにではなく、見えないものに目を留める人生です。主は生きておられます。1日中、賛美をしながら生活しましょう。
清宣教師