サムエルは、サウロを王として立てるにあたり、以前から、心にひっかかっていたことを実行するために、イスラエルの民たちを呼び、集会をひらきました。サムエルは民たちに対して、自分がいままで裁きつかさとしてなしてきたことに対して、すべての点において、潔白であることを語り、異論のある者はその証拠をもって民たちの前で提示するように迫りました。それに対して、イスラエルの民は全員、サムエルが裁きつかさとして潔白な人物であったことを、主の前で認めました。
サムエルの息子たちが、不祥事を起こしたため、民から拒否されましたが、サムエルに関しては、民たちはひとつの不祥事も見出すことが出来ませんでした。サムエルの息子たちの不祥事が、民たちの王を要求するきっかけとなったことは確かです。しかし、サムエル自身に対して、民たちはなにひとつ、不祥事を見出すことができなかったのです。まず、その点を明らかにしてから、民たちに対して、王を求めることがどのようなことを意味するか、丁寧に説明しています。
神がイスラエルの民を、ご自分の力で、エジプトの圧政から引き出されたことを思い起こさせました。そのとき、主が用いられたのは、モーセとアロンという主のしもべでした。そのあと、主が約束の地に、イスラエルの民を住まわせてくださったこと、しかし、その約束の地でもイスラエルの民が、偶像を愛して罪を犯したこと、それで、神がイスラエルの敵を用いてイスラエルをさばかれたこと、しかし、民たちが主に救いを求めたので、主はギデオンやエフタなどの裁きつかさを起こされて、イスラエルを救われたこと、しかし、アモン人の王ナハシュが攻めてきたとき、イスラエルの民たちはみな、主ご自身がイスラエルの王であるのに、他の国々と同じように目に見える王を求めたことを思い起こさせました。
王を求めることは、主なる神に対する反逆である(本質的には、目に見えるものにより頼むことは偶像礼拝に等しい)けれども、主はあえて、民たちが頑ななので、王を立てることを許されたのです。それを主はあえて許されたことを覚えて、自分たちの要求通りに王が立てられたことをもって良しとせず、民たちも、王も、主の御声に聞き従うものとなるように命じました。そうでなければ、さらに、悪いことが起こることをサムエルは憂慮しているのです。
主ではなく、王を求めた民たちの選択が、単に他の国々と同じものを求めたというものではなく、主に対する反逆であることを覚えるように、サムエルは季節外れの雷と雨とを、主に求めました。すると、小麦の刈り入れ時にもかかわらず、雷が鳴り響き、雨が降りました。そこで、民たちは主とサムエルを非常に恐れて、自分たちが主に対して、王を求めるという大罪を犯したことを悔い改めました。そのことを確認したサムエルは、改めて、主を畏れるように勧め、民たちのために、自分の一生の間、執り成し祈ることを約束しました。
わたしたちも、深く考えないで、まわりのひとたちと同じようでありたいと願い、主に求めることがあります。しかし、その中には本質的には偶像礼拝と等しいものが含まれていることがあります。神の民、クリスチャンとして、まわりの人たちとは一線を画して生きるというのも、神様のみこころです。とくに、神と富とに仕えることはできません、ということばがあります。また、神の国と神の義とを、第1に求めなさい、というみことばもあります。私たちの選択が、神様のみこころにかなったものとなりますように。主よ、きょうも、導いて下さい。
清宣教師