ダビデは、「私はいつか、いまに、サウルの手によって滅ぼされるだろう。ペリシテ人の地に逃れるよりほかに道はない。」と自分に言い聞かせました。23章の仕切りの岩の出来事に始まり、25章のジフの荒野での出来事は、ダビデにとって、神が奇跡的に自分を守って下さったという信仰をふるい立たせるものであったはずです。ところが、ダビデにとっては、逆に、サウル王の力が、どれほど、大きいものか、そして、サウル王の力の及ぶ範囲にいては自分がその危険から逃れることは不可能であるということを、身を持って覚える出来事であったようです。そして、「ペリシテ人の地に逃れるよりほかに道はない」という結論を出しました。この判断は、主にうかがったという形跡はしるされていません。自分自身で結論を出したと思われます。本来、主が奇跡的に助けて下さったのですから、主に拠り頼めば、どんな危機的な状況に陥ったとしても、大丈夫という結論が出ても良いのですが、主なる神を抜きにした結論は恐れでした。それで、ペリシテ人の地に逃れるよりほかに道はない、と考えて、それを実行しました。確かに、ダビデたち600人の一行がガテの王アキシュのところに逃れた時、サウル王は二度とダビデを追おうとはしませんでした(27章4節)。ダビデの人間的な判断は的中したのです。
しかし、この決断は、ダビデたち一行に偽りの生活を強いることになりました。イスラエルの王になるべきものが、敵に対してとはいえ、欺きの生活を送ることになったのです。ダビデ一行は、ガテの王アキシュの特別の好意で、ツィケラグに住むことになりました。それから1年4ヶ月、彼らは自分たちの生活を維持するため、ゲシュル人、ゲゼル人、アマレク人の部落を襲撃して、しかも、自分たちの欺きが発覚しないように、男も女もみな殺しにしたのです。そして、彼らの所有物を略奪したのです。そして、アキシュには、ユダヤ人に属するユダのネゲブとか、ケニ人のネゲブとか、いかにも、ダビデが同族の者たちを殺して、略奪したかのように報告していました。1年4ヶ月もの間、このような偽りと略奪の仕方で、生活を維持していたのです。このようなやりかたが、主のみこころにかなうものであるとは、考え難いことです。確かに、ダビデの策略は功を奏して、アキシュはダビデを信用しました。しかし、やがて、この偽りの結果を刈り取ることになります。このような欺きの生活がいつまでも成功するはずがありません。むしろ、主がこれらの欺きの生活をやめさせるために、遅くならないうちに、事を起こしてくださったのです。それは29章と30章で明らかになります。
きょうの個所からは、人間は、たとい信仰を持っていても、困難な状況を通らされると、「ほかに道はない」という結論にいきつくことがある、ということです。創造主を抜きにして、この世の状況の中で、「ほかに道はない」という人間的な判断をしてしまうことです。それは短期的には思い通りの収穫を得るかも知れません。しかし、主の祝福を受けるような道でなければ、必ず、ボロが出てしまいます。信仰の勇者ダビデですら間違いを犯したことを考えると、私たちはどんなにか、主の守りと助けを必要としていることでしょう。主よ。どうぞ、わたしたちが、主を抜きにして結論を出してしまうことがないように、聖霊様、私たちの霊の目を覚まさせてください。
清宣教師