ダビデは、自分や家族が住むための王宮が完成し、平和な生活を楽しむことが出来るようになりました。すると、ふと、気になったことがありました。それは自分は見事な杉材の家(エルサレムでは、石細工の家が多く、杉材は高価なものでした)に住んでいるのに、神の箱は移動式の天幕に納められていることはおかしいのではないかという思いが与えられました。おそらく、その思いが心から離れなくなったのでしょう。それで、神の箱のために素晴らしい家を建てたいと願い、日夜、そのことを考えるようになりました。そしてついに、預言者ナタンにそのビジョンを告げました。ナタンは「あなたの心にあることはみな行いなさい」と即答しました。(これには後日談があります。じつは、主の神殿を建てたいという願いは、ダビデの生涯の願いでしたが、主はそれを許されませんでした。そして、その子のソロモンに委ねるように命じました。そして、ソロモンが主の神殿の建設を完成させました。それは第1列王記7章51節、8章17節~19節に詳しく記されています。)
さて、その夜、預言者ナタンに主のおことばがありました。ダビデに対する主の返答のことばでした。それは、ダビデが主のために家を建てるのではなく、主がダビデのために家を建てるという祝福のことばでした。ダビデの家とは、ダビデ王朝のことです(13節参照)。預言者ナタンは、主はダビデ王朝をとこしえまで堅く立てるという約束を与えられたことをダビデに伝えました。それは、想像もしなかった主からのことばでした。途方もない恵みに満ちた約束でした。そこで、ダビデは、主の前に行き、座して、感謝の祈りを捧げました。自分は受ける資格のないものであることを告白し、主の恵みによって与えられた神の約束を驚きつつ、感謝し、賛美しました。そして、最後に、主のおことばの通り、しもべの家を祝福してくださいと祈りを捧げました。
今日の個所から教えられることは、私たちの心の中にも良いビジョンが与えられます。それを心の中にしまうことなく、牧師や信仰の先輩に相談してみるように勧められているように思います。つまり、自分のビジョンに対して、主が直接、答をくださることもありますが、私たちの相談相手を通して主のみこころが示されることも多いのです。それにしても、主のための良きビジョンは、そのビジョンを抱いただけでも、主の祝福を受けるものであることに驚きませんか。主の教会のために、主のお働きのために、良いビジョンを持つことは幸いです。たとえ、それが自分には実行できなくても、その思いが主にあって受け入れられ、主からの祝福として返ってくるのです。たとい自分にふさわしくない場合でも、そのビジョンは、主の御手によって、しかるべき人(他の兄弟姉妹、あるいは、次世代の兄弟姉妹かも知れません)が立てられて、実現に至るのです。主にあるビジョンを分かち合いましょう。
清宣教師