前章では、ダビデは王宮を脱出して、泣きながらオリーブの山をのぼりました。はだしで泣きながら登りました。息子の反逆、もろもろの思いが悲しみとなってダビデを襲ったに違いありません。しかし、ダビデは、そのような状況の中でも、祭司ツァドクが契約の箱を担いでくると、契約の箱を町に戻すように指示し、自分の職務に戻るように指示しました。さらに、アルキ人フシャイが訪ねてくると、今後の対処の仕方について適切な指示をだしました。絶体絶命のような状況下でも、ダビデは的確な判断を下しました。かつて、王宮で昼寝をして、暇をもてあまして、バテシバの裸体を見ていたダビデとは違います。あたかも、主に油注がれた王としての原点にもどったかのような印象をうけます。この事件は、主の御手の中で、用いられていることが分るような気がします。
さて、オリーブ山の頂をこえて少しくだると、そこにはツィバが多くの食料を備えて待っていました。主は悲しみの中に、必ず慰めを備えて下さるお方です。しかし、さらに、山をくだると、サウルの家の一族のひとり、シムイがダビデとその一行を呪いました。また、石を投げつけてきました。王の側近は、シムイを切り殺そうと言いましたが、ダビデはそれを止めました。主の赦しなしにはなにごとも起こりえないからです。ダビデを呪うことを許された主には、主のお考えがあり、ダビデにとってそれが最良最善であるからこそ、主が許されたということをダビデは知っていました。それで、シムイの呪いをあえて、避けることなく、受けました。シムイの呪いは[血まみれの男、よこしまな者]という呪いでしたが、その訴えは正しいものではありませんでした。シムイの利己的な心から出てきたものでした。ですから、シムイはのちに裁きをうけることになります。ここにも、主のみこころを第1に受け留めようとする、昔のダビデの姿を見る思いがします。一方、アブシャロムはエルサレムに入りますが、そこに「王様、万歳」と言って登場したフシャイに心をゆるしてしまいました。アヒトフェルと共に、フシャイにも自分の相談相手になるように要請しました。アヒトフェルは、次々と、王に進言し、その助言はとても的確であり、ダビデにも、アブシャロムにも、神に伺って得た神のことばのように思えました(23節)。こうして、アブシャロムの王としての地位が、宮廷内で着々と確立していくように見えました。
今日の個所から教えられることは、逆境に強い人とはどのような人かということです。ダビデは、自分が逆境にあることを認めて、それも主の御計画の一部であると信じているので、それを受け入れています。同時に、そのことの意味を考えています。「順境の日には喜び、逆境の日には考えよ。これもあれも神のなさること。」(伝道者の書、7章14節)という御言葉の通り実行する人でした。シムイのこと、メフィボシェテのことを聞いても、そのまま受け入れて、主にお委ねしています。自分自身の判断で即断せずに、主に委ねて、明確に判断できる時を待ちました(11節―12節参照)。私たちも、ダビデのように、たとい四面楚歌のような状況に追いやられても、主がそのことを許されていることを覚えて、主が解決されることを信じて、主にすべてを委ねる者となりたいです。
清宣教師