ダビデの最後のことばが記されています。ダビデの人生の最期のことばです。列王記に入り、ダビデの生涯の最後を知るひとにとっては、23章1節~7節のことばが、文字通り、ダビデの生涯の最期のことばとは思えないくらい、明確な主張が込められているので、驚くかも知れません。一方で、アブラハムも、ヤコブも、モーセも、人生の最期に遺言として、同時に、預言的な祝福のことばを遺しています。そして、同時に、2節に、「主の霊は、私を通して語り」と記されているように、信仰者が人生を終えようとして語る時、とくに、主の霊の助けがあるので、明晰なことばで表現できたのだと推測されます。
冒頭の「エッサイの子ダビデの告げたことば。高くあげられた者、ヤコブの神に油注がれた者の告げたことば。」という表現は、民数記のバラムのことばを思い出させるものです。ここで、ダビデは高くあげられた者と表現しています。確かに、羊飼いの身分から王へと高められましたが、ここでは、霊的な意味で高められたことを言い表したいようです。それこそ、ヤコブの神に油注がれた者という表現へと繋がっているように思われます。そして、「主の霊は、私を通して語り、そのことばは、私の舌の上にある」と述べています。それほど、主との親しい関係が維持されていたということです。
さて、新約時代に入り、イエス様はダビデのことを、詩篇110篇を引用されて、パリサイ人たちが集まっているときに、彼らに尋ねられました。「あなたがたは、キリストについて、どう思いますか。彼はだれの子ですか。」 彼らはイエスに言った。 「ダビデの子です。」 イエスは彼らに言われた。 「それでは、どうしてダビデは、御霊によって、彼を主と呼び、『主は私の主に言われた。「わたしがあなたの敵をあなたの足の下に従わせるまでは、わたしの右の座に着いていなさい。」』と言っているのですか。ダビデがキリストを主と呼んでいるのなら、どうして彼はダビデの子なのでしょう。」と問いかけました。イエス様はダビデが1000年以上も前に、イエス様を「私の主」と呼んでいる点をクローズアップされました。なぜ、ダビデは1000年後のイエス様のことを、主と呼ぶことが出来たのでしょう。その答えは、今日の23章2節において、ダビデが「主の霊は、私を通して語り」と告白していることにあります。主の御霊が語らせたのです。
1節~7節において、ダビデの人生の具体的な表現は省略されています。そういう意味では、ダビデと神との間の具体的なやりとりを、22章で紹介したのかも知れません。ここでは、ダビデ王家を祝福し、守られたイスラエルの岩、イスラエルの神への賛歌でまとめられていますが、じつは、ダビデの全生涯そのものが目指していたものこそ、イスラエルの神への賛歌の人生でした。
後半は、ダビデの勇士たちの武勇伝が記されています。つまり、ダビデ王家の背後には、ダビデの勇士たちの支えがあったことを指摘しています。なかでも、30人の勇士の名前が記されていますが、その人たちは先の3人には及ばなかったとされています。つまり、ヤショブアム、エルアザル、シャマのダビデの3勇士たちです。彼らはいのちがけで、ダビデの願いを実現しました。ダビデは彼らに命じたことを後悔し、彼らがいのちをかけて汲んできた水を、自分が飲む資格はない事、主だけがそれを受けるにふさわしい方であることを告白して、その水を主に捧げました。このようにして、ダビデの王家は、いのちがけで主に仕える者たちによって支えられたのです。私たちも、彼らの献身にならいたいと願います。
清宣教師