北イスラエル王国と南ユダ王国の歴史が、二本の糸のように綴りあわされて紹介されていますが、主の憐みの中で、なんとか維持されているのを見てきました。しかし、確実に主の憐みの時、恵みの期間の終わりが近づいていました。きょうの15章でも、北イスラエルの歴代の王がヤロブアムの罪をやめなかったことが指摘されています。王が変わるということは、あるいは王朝が変わるということは、ヤロブアムの罪を改めるチャンスでした。しかし、そのチャンスを逃しました(15章9節、18節、24節、28節)。そして、確実に滅びの道を進んで行きました。北イスラエル王国が亡びるに至った理由は、17章22節、23節に、明確に記されています。それは、ヤロブアムの罪をやめなかったことでした。
では、ヤロブアムの罪とはどういうものだったでしょうか。もう一度、確認したいと思います。サウロ、ダビデ、ソロモンによる統一王国が分裂して、ソロモンの子のレハブアムが王に即位した時、北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂しました。北イスラエル王国の王となったのが、ヤロブアム一世でした(列王記第1、12章20節)。そのとき、ヤロブアム王は、自分の王朝を維持するために、北イスラエル王国の民たちが、南ユダ王国の首都であるエルサレムの主の宮へ行くことを阻止する手段を考案しました。そのことが、列王記第1、12章26節~33節に記されています。「ヤロブアムは心に思った。『今のままなら、この王国はダビデの家に戻るだろう。この民が、エルサレムにある主の宮でいけにえをささげるために上って行くことになっていれば、この民の心は、彼らの主君、ユダの王レハブアムに再び帰り、私を殺し、ユダの王レハブアムのもとに帰るだろう。』そこで、王は相談して、金の子牛を二つ造り、彼らに言った。『もう、エルサレムに上る必要はない。イスラエルよ。ここに、あなたをエジプトから連れ上ったあなたの神々がおられる。』それから、彼は一つをベテルに据え、一つをダンに安置した。このことは罪となった。民はこの一つを礼拝するためダンにまで行った。それから、彼は高き所の宮を建て、レビの子孫でない一般の民の中から祭司を任命した。そのうえ、ヤロブアムはユダでの祭りにならって、祭りの日を第八の月の十五日と定め、祭壇でいけにえをささげた。こうして彼は、ベテルで自分が造った子牛のいけにえをささげた。また、彼が任命した高き所の祭司たちをベテルに常住させた。彼は自分で勝手に考え出した月である第八の月の十五日に、ベテルに造った祭壇でいけにえをささげ、イスラエル人のために祭りの日を定め、祭壇でいけにえをささげ、香をたいた。」これがヤロブアムの罪と呼ばれるもので、北イスラエルの歴代の王たちが、決してやめることをしなかったヤロブアムの罪と呼ばれるものでした。一方、南ユダ王国は、ダビデ王朝が続き、主の憐みにより、アザルヤ、ヨタムも、主の目にかなうことをことを行いました(15章3節、34節)。
15章全体を通して、主の目に適うことをするか、あるいは、主の目が忌み嫌うことを行うのか、それは個人レベルだけでなく、国家レベルであっても、蒔いた種を刈り取ることになるのです。ともに、日本の国の歩みのためにもお祈りしたいと思います。この国が、創造主を知り、創造主を礼拝する国民へと変えて下さい。
清宣教師