ヒゼキヤ王は25歳でエルサレムで王となり、29年間、王でした(列王記、第2、18章2節)。そして、ヒゼキヤ王の治世の14年目に、アッシリヤの王セナケリブが大軍を率いて、ユダのすべての城壁のある町々を占領して、エルサレムは風前の灯火となりました。しかし、主が介入して下さり。アッシリヤの陣営で18万5千人が打ち殺されたので、アッシリヤの軍勢は撤退していきました。そして、今日の20章では、突然、ヒゼキヤ王が病に倒れてしかも重病になりました。そこへ主の預言者イザヤが遣わされてきて、ヒゼキヤ王に対して、「あなたの家を整理せよ。あなたは死ぬ。あなたは直らない」という宣告を聞きました。このあとを読むと、ヒゼキヤは大声で泣き、主に叫び求めて、15年間、寿命を延ばしてもらうことができました。ヒゼキヤ王の治世が29年間でしたから、29年から15年を差し引くと、14年となります。つまり、ヒゼキヤ王の治世の14年目の出来事でした。まさに、アッシリヤのセナケリブがエルサレムを包囲して、大変な時期の真っただ中であったことになります。まさに、ヒゼキヤ王が大声で泣き、必死に、延命を求めた事情が理解できます。宗教改革者としてのヒゼキヤ王が、アッシリヤの攻撃を受けている最中の出来事とすれば、死ぬに死ねない心境でした。「あなたの家を整理せよ」という意味は、私たちのいわゆる「終活」のような家の中の荷物整理ではなく、ヒゼキヤの治世の終わりに際して次世代の王への引き継ぎなどを準備せよ、という意味でした。それにしても、南ユダ王国の中で、ヒゼキヤ王は、主の目にかなうことを行い、高き所を除き、石の柱を打ちこわし、「彼のあとにも先にも、ユダの王たちの中で、彼ほどの者は誰もいなかった」(列王記第2、18章5節)と記されている名君が、どうして、志の半ばで死ななければならないのか、私たちには、主のご計画を理解することが難しい個所でもあります。
その際に、主が見せて下さった日時計の奇蹟(20章11節)はヒゼキヤにとって大きな励ましとなったと考えられますが、じつは、その奇蹟がヒゼキヤ王を慢心させる結果にもなったようです。バビロンの使者がヒゼキヤ王のお見舞いに来たとき、ヒゼキヤは、彼らを大歓迎し、王家の宝物蔵はもちろん、ユダの国中の宝物をみな、彼らに見せました。ヒゼキヤ王の思いを推測すると、当時の最大の敵はアッシリヤ帝国でした。それに対して、バビロンは新興国であり、ある意味、アッシリヤに敵対する勢力のひとつでした。つまり、ヒゼキヤ王は、バビロンに全面的に頼る姿勢へとシフトしたようです。その結果、ヒゼキヤ王は、預言者イザヤを通して、南ユダ王国の滅亡とバビロン捕囚の預言を聞くことになりました。それでも、主の憐みにより、その時はまだ先の事として告げられました。それにしても、15年の延命により、マナセが誕生することになり、ヒゼキヤのあと、マナセ王は55年間の長期の王権をふるいました。しかも、ユダ王国史上、最悪の王でした。マナセ王の治世によりバビロンによる滅亡が決定的となりました。このような経過をみると、ヒゼキヤ王が願った15年の延命はむしろマイナスをもたらしました。そのような意味では、人間(ヒゼキヤ)の目には最悪でも、主のご計画はいつも、最善最良の計画であると教えられます。
ここでも、次世代への信仰の継承の重要性が指摘されています。折角の宗教改革でしたが、次に誕生したマナセ王の徹底的な偶像礼拝の政策は、ヒゼキヤ王の治世のおよそ2倍の55年にも及びました。ある意味、経済的には繁栄して、いわゆる戦争がない平和があり、民たちは満足していたようです。しかし、肝心要(かんじんかなめ)の信仰が骨抜きにされてしまった時代となってしまいました。今の時代に似ています。閖上には、供養のためという理由で、大観音の像が建てられるようです。日本は、先進国であり、偶像には無関係を装いながら、実は、偶像に満ちている国となっています。日本のための執り成しの祈りが必要です。
清宣教師