エリシャの家へ、訪ねてきた王の使者に対して、エリシャは、戸をしめて彼らが入ることが出来ないように命じました(6章32節)。そこで、王の使者は、戸の外から王のことばを告げました。それは「これ以上、何を私は主に期待しなければならないのか」ということばでした。主への不信をあらわにする王のことばに対して、エリシャは、あすの今ごろには、サマリヤの門で、上等の小麦粉も、大麦も、豊作の時のように安い値段で売られるようになる、と言いました。それを聞いた王の侍従は「たとい、主が天に窓を作られるにしても、そんなことがあるだろうか。」と反論しました。そこで、エリシャは「確かに、あなたは自分の目でそれを見るが、それを食べることはできない」と宣言しました。確かに状況的には、王の侍従のいうとおりでした。だからといって、主のことばに対して、あからさまにバカにして否定するなら、その刈取りをすることになります。人のことばと主のことばを同列に扱うなら、王の侍従長のような態度をとることになります。それは愚かなことです。主の恵みにあずかることが出来なくなるからです。
さて、四人のツァラアトに冒された人が、町の門の入口にいました。彼らは、ここにいても、町の中にいても、どうせ死ぬ以外にないと考えて、いっそのこと、アラムの陣営に行って見ようと決断しました。万が一、助かるかもしれないと思ったのです。それで、暗闇が迫る頃、アラムの陣営に近寄りました。すると、驚いたことにアラムの陣営には人影が見当たりません。それで、初めは自分たちのために食べ物や銀や金や衣服などを略奪して地に隠していたのですが、途中から、彼らは、この良い知らせを自分たちだけが受けていたら、きっと、神様から咎めを受けるに違いないと考えました。イスラエルの共同体の一員として、彼らは、同胞に知らせるべきだと判断したのです。それで、サマリヤの町の門の所に来て、王に伝えてもらうように門番に頼みました。王は最初は半信半疑でしたが、偵察隊の報告により、敵がヨルダン川まで敗走したことを知りました。それで、民たちにアラムの陣営に行って略奪することを許可しました。彼らは、早速、アラムの陣営に入り、ヨルダン川までの道々に投げ捨てられていたアラムの持ち物をすべて回収しました。そして、エリシャを通して主が語られたように、小麦粉も、大麦も、豊作の時のような安い値段で売り買いすることが実現しました。しかし、あの侍従は、王に命じられて門番をしていましたが、アラムの陣営に一刻も早く行こうとするイスラエルの民たちがサマリヤの狭い門に、怒涛のように押し寄せたので、民たちに踏みつけられたので死んでしまいました。事故死でした。本来は、民たちと共に主の恵みにあずかれるはずでした。しかし、あからさまに、主のことばを否定したので、その恵みにあずかることが出来ませんでした。
さて、これらのことが起こったのは、イスラエルの民たちが何か行動を起こしたからではありませんでした。主ご自身が、アラムの陣営に対して、遠くから、戦車の響き、馬のいななき、大軍勢の騒ぎを聞かせられたので、アラムの軍勢は、イスラエルの王が、ヘテ人の王たち、エジプトの王たちを雇って、われわれを襲うのだ、と勝手に判断して、われさきにその場を去ったためでした。
イエス様は、弟子たちに対して、「何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」と約束されました。どんな状況にあっても、神の国と神の義を第1に求める時に、主がすべての必要を与えて下さる、と約束してくださいました。主に感謝します。
清宣教師