「ヨシャパテが代わって王となった」(1節)と記されています。歴代誌の表題のごとく、次から次へと、王が代わり、バトンタッチされていく姿を記録しています。私たちの人生は1代限りであって輪廻するわけではありません。ということは、必ず、バトンタッチが必要であるということです。このことを念頭に置くなら、次世代の人材を建てあげることが大事であることが分ります。いろいろなところで世代の交代があります。会社でも、学校の部活でも、町内会でも、どこでもそうです。しかし、一番、身近なのは家庭です。家庭の中では、こどもたちが親元を離れて行く時がきます。こどもたちが素直に親の言うことを聞くのは小学4年生くらいまでと言われています。生まれてから10年の期間が、信仰を継承するうえで、とても大事な時期といえます。この時期を過ぎたらどうするか、直接的なことではなく、おそらく、生活を通して、また、祈りを通して伝えていくことになると思います。
いずれにせよ、もっとも大切なことは聖書に記されています。それは「愛」です。しかし、真実の「愛」を人間の中に見ることはめったにありません。それでも、私達は「愛」を求めます。私たち人間が、一人ぼっちの寂しさから行動する時、周りの人たちに「愛」を求めます。そして、ときに、それは暴力になります。多くの暴力が愛を求めてのことであるというのは悲劇です。夫婦の間でも、親子の間でも、愛を求めて得られず、暴力的な反応として現れてしまうのです。条件や制約のない愛を求めます。しかし、どんな人間であってもそれを与えることが出来ません。私たちがそのような愛を求める度に、私達は暴力の道へと向かってしまうのです。親や子、夫や妻に対して、あるいは牧師に対して「愛」を求めるなら、結果的に、悲劇を生みだします。完全な愛は、「愛」なるお方との交わりを通してのみ与えられます。私たちが創造主なる神様との交わりを通して、また、贖い主なる御子を通して、真の「愛」を体験することがすべての解決の出発点です。
ヨシャパテは、祝福されました。それは、バアルに求めず、父の神に求めて歩んだからです(3節、4節)。幸いは、父なる神様から来ます。山上の垂訓の中に、「幸いなるかな」ということばで始まる祝福の約束があります。その「幸いなるかな」とは、原語では、「神に祝福された」という意味です。「幸い」はどこから来るのか、その答えは明らかです。父なる神に祝福されることが真の幸せ、真の幸いです。私たちは、父なる神様の愛の中にいます。そのことを自分で体験することが、子供たち、次世代の人たちへの贈り物となります。御子イエス様は、父なる神様に執り成しの祈りを捧げられました。「あなたがわたしを愛してくださったその愛が彼らの中にあり、またわたしが彼らの中にいるためです」(ヨハネの福音書17章26節)。
清宣教師