昨日の19章では、ヨシャパテ王が、北イスラエルの王アハブとの人間関係の重視のゆえに実りのない戦闘に巻き込まれ、命からがらエルサレムに帰ってきました。そのとき、先見者(預言者)エフーがヨシャパテ王のもとに来て、主からの譴責のことばを伝えました。それを聞いたヨシャパテ王はへりくだり、リバイバルが起きました。振り返ると、ヨシャパテ王の父であるアサ王の晩年の時代、先見者エフーの父である予見者ハナニが、アサ王に対して主の譴責のことばを伝えたことがありました。しかし、その場合は、アサ王は予見者を激しく憎み、罰を加えました。そして、悔い改めることをしませんでした(16章7節―10節参照)。今回、特筆されるべきことは、ヨシャパテは過ちを犯しましたが、主の譴責のことばがあったとき、それを素直に受け止めて、信仰のリバイバルというより高いところへとステップアップさせていただいたことです。「すべての問題は祝福の門口です」。試練は私たちをダメにするためではなく、主が私たちをステップアップするために備えられたものです。今日の20章では、突然、最大の試練が訪れました(もちろん、主にあっては突然ではなく、主の御計画のときでした)。モアブ人とアモン人の大軍が南ユダを攻撃してきました。それに対して、ヨシャパテ王は、主への信仰によって、しっかり、立ちました。ヨシャパテは、主の宮の前で、ユダとエルサレムの全集団の代表として、主に祈りました。「私たちの神よ。あなたは彼らをさばいてくださらないのですか。私たちに立ち向かって来たこのおびただしい大軍に当たる力は、私たちにはありません。私たちとしては、どうすればよいかわかりません。ただ、あなたに私たちの目を注ぐのみです。」(20章12節)。ヨシャパテが祈り終えた時、主の霊がその集団の中のレビ人ヤハジエルの上に臨んで語らせました。「主はあなたがたにこう仰せられます。『あなたがたはこのおびただしい大軍のゆえに恐れてはならない。気落ちしてはならない。この戦いはあなたがたの戦いではなく、神の戦いであるから。・・・この戦いではあなたがたが戦うのではない。しっかり立って動かずにいよ。あなたがたとともにいる主の救いを見よ。』」(16節―17節)。彼らは、ひれ伏して主を礼拝し、大声を張り上げて主を賛美しました。そのとき、ヨシャパテ王は、民たちと相談して、不思議なことを決めました(21節)。聖なる飾り物を着けて賛美する者たちを任命し、武装した者たちの前で、「主に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。」と賛美させたのです。戦いの先頭に立ったのは、軍隊ではなく、賛美する者たちでした。これが王と民との主への信仰の応答でした。そのとき、アモン人とモアブ人たちは打ち負かされました。主は私たちにも語られます。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ書30章15節)。そして、最後に、信仰者のヨシャパテの弱点が記されています。北イスラエルのアハズヤと同盟を結んだことです。これは、私たちが陥りやすいヒューマニズム(人間中心主義)の行動を指しています。これは決して主のみこころではないことを指摘しています。
清宣教師