南ユダ王国では、レハブアム王に代わって、アビヤが王となりました。北イスラエルのヤロブアム王の第18年目の年にあたります。
アビヤは、ヤロブアムの攻撃に対して主により頼み、主に叫び求めつつ、戦いを進めました。そして、主の御手のゆえに、北イスラエルのヤロブアムの軍勢が、南ユダの軍勢に打ち負かされました。それ以後も南ユダは、アビヤ王の時代には、主の御手のまもりのゆえに、平和が保たれたようです。
しかし、別の視点から見た記録が残されています。それは、列王記第1、15章1節―7節の記事です。次のように記されています。「ネバテの子ヤロブアムの王の第18年に、アビヤム(アビヤのこと)はユダの王となり、エルサレムで三年間、王であった。彼の母の名はマアカといい、アブシャロムの娘であった。彼は父がかつて犯したすべての罪を行い、彼の心は父ダビデのようには、彼の神、主と全く一つにはなっていなかった。しかし、ダビデに免じて、彼の神、主は、エルサレムにおいて彼に一つのともしびを与え、彼の跡を継ぐ子を起こし、エルサレムを堅く立てられた。それはダビデが主の目にかなうことを行い、ヘテ人ウリヤのことのほかは、一生の間、主が命じられたすべてのことにそむかなかったからである。レハブアムとヤロブアムとの間には、一生の間、争いがあった。・・・」
歴代誌では、良い王としての側面が描かれていましたが、列王記では、父親のレハブアム王と同じく、悪事を行い、主と全くひとつにはなっていなかったと記されれています。
南ユダの勝利と平和は、アビヤ王の信仰の賜物であると思ったら、本当は、ダビデの信仰に対する主の憐みと恵みのゆえであったことを知ることが出来ます。私たちは、多くの場合、何事かに成功すると、それを自分自身の業績に帰してしまうことが多いです。しかし、真実は、その前に祈っていた兄弟姉妹への神の憐みの応答であったり、親や先輩、あるいは、後輩の働きへの主からの応答である場合も多いのです。ですから、私たちは、ものごとがうまくいったとしても、自分に栄光を帰することなく、主に栄光を帰することが正解です。
列王記や歴代誌を読む時に、次から次へと歴史が展開していきます。それと共に、王たちもまた代わります。人生は長いようでも、確実に、この世の人生を終えるときがきます。忙しさに流されることなく、主なる神様との連続した会話、祈りの人生を築きたいです。その延長線上に、永遠の主との交わり、主との会話が続くのですから。それが御国に入る準備なのだと思います。また、あらゆることに感謝し、主を賛美する人生を築くことが、御国での永遠の賛美の生活の備えとなるものと思われます。
清宣教師