表題には、「ダビデの祈り」と記されていますが、86篇、142篇にも同じ表題がつけられています。1節~5節は、祈る者の自身の点検。6節~9節は、主の中にこそ安全がある。10節~12節は、迫りくる危険の実態。13節~15節は、信仰者の希望と満足。ダビデは無実の罪で、サウロの支配下にある人たちによって、いのちをねらわれており、神の守りを熱心に祈り求めている状況下で、この詩を歌ったと考えられます。
最初の1節から、ダビデは「主よ。聞いて下さい。正しい訴えを。」と歌っています。激しい攻撃を受けて、主に、自分自身の無実を訴えています。主こそ、自分の訴えの正しさを証明して下さるお方です。なぜなら、主こそ、すべてを御存じであり、主は公正なお方であるからです。ダビデが主に訴えた時、主は、ダビデを調べ、夜にはダビデを問いただされました。それだけでなく、ダビデを試されましたが、そこに何の咎も見出されませんでした(3節)。公正で正しい裁判官である主が調べて、何も悪いことを見いだされなかったのですから、ダビデは自分の歩んだ道を、5節で、「あなたの道を堅く守り、私の足はよろけませんでした。」と表現することが出来ました。6節においてダビデは、「私は」と記していますが、これは強調のことばです。それは、主は私にいつも答えて下さったお方である、という体験に基づいています。7節は、神の力を象徴する「右の手」に救いを求めて来るものには、主は特別に恵みを示して下さり、特別な救いをもたらして下さるお方であることを表現しています。私たちは何か危ない目にあったとき、両手で顔を覆い、眼の瞳を守ります。そのように、主が、私たちを「ひとみ」のように守って下さるように、また、親鳥が雛たちを守るように、主の御翼の陰に隠して、いのちをねらう敵たちの手から守って下さい、と嘆願しています。敵どもは、邪悪な者たちで、貪欲で、私利私欲のために、人のいのちをねらう者たちです。待ち伏せしている獅子のように、とても危険な敵たちです。それは悪者どもの集団であり、とても危険な状態にありました。そこで、ダビデは「主よ。立ち上がって下さい。」「あなたの剣で、悪者から私のたましいを助け出してください」(13節)と祈っています。主のみことばは、両刃の剣より鋭く、魂と霊の分かれ目も刺し通すことのできるものです(へブル人への手紙4章12節)。14節で、ダビデを取り巻く敵とは、この世だけが相続分である、現世的な物質と富を求める人たちであることが分ります。彼らの偽りの繁栄は、彼らの強力な武器でした。それに打ち勝つ武器は、武力ではなく、主の御霊の剣、つまり、主のみことばです。こうして、日々、主の御顔を仰ぎ、主との交わりの中に生きるなら、毎朝の目覚めは、主との交わりの時となり、主の御姿に満ち足りる1日となります。
今日の聖書箇所から教えられることは、クリスチャンは、主の前に責められるところがない生き方をすることです。そうすれば、主があなたのことを御存じですから、敵たちの前で、主の瞳のように守って下さいます。それでも、しつこく私たちを滅ぼそうと狙いを定めて襲ってくる敵たちに対しては、主みずから立ち上がり、敵を打ちのめしてくださいます。
清宣教師