きょうは詩篇30篇です。表題は「家を捧げる歌」となっておりますが、現代の聖書注解者は、「いのちは恩寵のうちに」という表題をつけています。時代背景としては、最初は個人の家であったものが、紀元前165年のユダ・マッカバイオスによる神殿奪還と祭壇再建に伴う宮きよめの祭に用いられたと考えられています。
内容的には、いのちの回復を感謝して、主を賛美し、ともに主をあかししようという招きと勧めとなっています。1節~3節は、いのちの回復を主に感謝する。4節~5節は、信仰の友への呼びかけ。6節~10節は、不信仰と信仰の体験。11節~12節は、いのちの限り感謝したい。
ダビデは大きな危険、おそらく大病からの回復を経験したと思われます。まず、主に回復の感謝を捧げました。2節の「いやされた」は、文字通りの病気からの快復、「穴にくだる」とは死ぬことを意味しています。「主よ。あなたは私の魂をよみから引き揚げ、私が穴に下っていかないように、私を生かしておかれました。」(3節)。4節と5節は、信仰の仲間への呼びかけと勧めです。「聖徒」とは主に愛され、主を愛する信仰者の事です。同じ信仰の仲間に励ましと慰めを分かち合っています。病気という大きな試練に遭いましたが、じつは、それは束の間のものでした。主はまことに恵みと慈しみに富んでおられ、「いのちは恩寵のうちにある」という実体験からの信仰の告白です。「夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。」(5節)。ここでは朝明けと夕暮れが対比されています。1日を終えて、夕暮れには涙があったとしても、朝明けには喜びが回復される、ということは主にある大きな恩寵です。6節では、ダビデは、自分の過去の不信仰の体験を告白しています。7節の「ご恩寵のうちに、私の山を強く立たせてくださいました」とは、栄えて健康であった時には気付かなかったが、今病気の中でそのことに気付き、悔い改めていることを表してます。「苦しみに会う前には、私はあやまちを犯しました。しかし今は、あなたのことばを守ります」(詩篇119篇67節)。「あなたは私のために、嘆きを踊りに変えてくださいました。荒布を解き、喜びを私に着せ下さいました」(11節)。「荒布」とは、悲しみ、嘆き、悔い改めを表す表現です。それが「喜びを着せる」ということは、祈りがきかれたことを表しています。大病から癒されて健康が回復されたことの喜び、このことを忘れずに、とこしえまでも主に感謝します、という信仰の告白です。
今日の聖書箇所から教えられることは、私たちもまた、人生の中で、同じような信仰の勝利の経験をしたことがあるはずです。それを、いつのまにか忘れてしまうのが人間です。信仰の友に、興奮して証ししたことがあったはずです。でも、いつのまにか、忘れている自分があります。きょう、その経験を思い出して、改めて新しい感謝を主に捧げて再出発しようではありませんか。「私はとこしえまでも、あなたに感謝します。」
清宣教師