きょうの1日1章は、詩篇32篇です。ダビデが自分の罪を告白し、主から赦された体験を詩にしたものです。「幸いなことよ。そのそむきの罪を赦され、罪をおおわれた人は」という、人生の中でも最も感動的な体験をしたダビデでした。罪を隠し、それを黙っているときは、1日中、うめいて疲れ果てるばかりでした。それは、主の見えない御手が、自分の上に重くのしかかり、一方で、魂がひでりで乾いた土のように、潤いを求めて、耐えられない状況なのです。とうとう、「私のそむきの罪を主に告白しよう。」と決断しました。すると、すぐさま、主は私の罪のとがめを赦されました(5節)。なんという幸いでしょう。あれほどまでに、地獄の炎によって燃やし尽くされようとしていた魂の苦しみが、冷たい水によって潤されるように、主との親しい交わりが回復されたのです。主の憐みを知る聖徒たちはみな、主の前に祈ります。そして、主から助言をいただき、主の恵みの中を歩むことが出来るのです。
今日の聖書の個所から教えられることは、主は、私たちの罪を赦されるということです。私たちは、たくさんの失敗をします。たくさんの罪を犯します。しかし、主はすべてを赦して下さいます。主にあっては、完全であるかどうかは問題になりません。人間は不完全であり、罪を犯す弱さをもっています。それを、主は理解し、受け入れておられます。「おまえは不完全だ!おまえは失敗した!」と責めるのはサタンです。主は、あるがままの私たちを受け入れて下さいます。私たちは、神の赦しの中で、愛の中に、生きているのです。お互いに完全かどうかは問題ではありません。主が求めておられるのは、私たちが、素直に自分の真の姿を認めて、あるがままで、主の前に自分を差し出すことです。主は受け入れて下さいます。
清牧師