今日の詩篇40篇について、ある注解者は「私の耳は開かれた」という題名をつけています。それは6節の「あなたはわたしの耳を開いて下さいました」から来ています。「耳を開かれる」ということが信仰の服従の基礎であることをこの詩篇は教えている、と記しています。確かに、ユダヤ人にとって、最も大切な律法は、「シェマー(聞きなさい)」で始まると言われています。耳を開くことが、信仰の第1歩である、と思われます。前半の1節~11節は、過去の救いと感謝の服従。まず1節~3節は、祈りはきかれた。4節~5節は、主の恵みの豊かさ。6節~8節は感謝の服従。9節~11節は、公けの場での救いの証し。後半の12節~17節は、現在の苦境と祈りとなっています。この詩篇もダビデが経験した危機的な状況の中での反逆者としての逃亡の人生、その中で常に救いを与えて下さった主を賛美しています。主の数々の恵みのわざを決して忘れることはありません。しかも、それはあまりにも多くてすべてを述べ尽くすことが出来ないほどです。ところで、6節~8節は、へブル人への手紙10章5節~7節で引用されています。キリストの服従の生涯を預言的に述べていると言われています。「ですから、キリストは、この世界に来て、こう言われるのです。『あなたは、いけにえやささげ物を望まないで、わたしのために、からだを造ってくださいました。あなたは全焼のいけにえと罪のためのいけにえとで満足されませんでした。そこでわたしは言いました。『さあ、わたしは来ました。聖書のある巻に、わたしについてしるされているとおり、神よ、あなたのみこころを行
うために』」。まさに、キリストの献身の極意が記されています。
今日の聖書箇所から教えられることは、「わが神。私はみこころを行うことを喜びとします。あなたの教えは私の心のうちにあります。」(8節)という、キリストの信仰の人生の模範にならう告白です。主のみこころを行うことこそ、私の喜びです。
清宣教師