今日の個所は、どのような歴史的な背景があるのか定かではありません。ダビデがサウル王に仕えていた時に、王のもとで受けた中傷か、あるいは、アブシャロムの謀反のときに受けた誹謗かも知れません。神を恐れない者たちが、自分たちの舌で勝利を得ようとして、お互いに連携し、自分たちの真の意図を隠して、悪巧みを練りあげ、正しい人に向かって、不意に誹謗中傷のことばを投げかける者たちの行動を描いています(1節―6節)。しかし、神は彼らの悪巧みを見ておられるので、悪者に対して矢を射かけられます。彼らは自分の言葉により自滅するのです(7節、8節)。こうして、人々は神のみわざを賞賛し、主のもとに身を避けるのです(9節、10節)。
私たちクリスチャンも、「悪をもって悪に打ち勝つ」道ではなく、むしろ「善をもって悪に打ち勝つ]道を選びます。不意に射かけられる矢のような中傷誹謗に対しても、「ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しく裁かれる方にお任せするのです(ぺテロの第1の手紙、2章23節)。私たちは、御子のように『真に勇気ある者』となることが求められています。
一方、ヘンリー・ナウエンは次のことを指摘しています。私たちにとっての大きな誘惑は、「喜ばせ屋」になってしまうことです。「喜ばせ屋」は人の気をひくのにぴったりの言葉を語りはしますが、語る言葉はその人の内面的ないのちに根ざしてはいないのです。私たちは語る時、言葉が私たちの心に根ざしたものであることを常に確かめるようにしたいものです。その最善の方法は、祈りに満ちた沈黙にあります。私たちは正しく、ことばを用いる必要があります。言葉を通して、私たちはどのように生きているかを自分のものとし、内面化します。言葉は、私たちの経験を真に人間的なものとしてくれます。私たちは、ただ生きるだけではなく、同時に、私たちはどのように生きているかを言葉にしなければなりません。まさに、クリスチャンとして、神のこどもとして、心にあることが正しく表現される必要があります。どのように生きているかを語らないと、私たちの人生は活力と創造性を失ってしまいます。美しい景色を見たら、見ているものを表そうと言葉を探します。心優しい人に出会ったら、その出会いについて語りたくなります。悲しみや大きな苦しみに遭うと、その悲しみや苦しみについて語る必要を感じます。喜びで驚いたときには、その喜びを告げ知らせたいと思うのではないでしょうか。言葉は私たちを繋ぎ、交わりへと呼びかけています。
今日の聖書から教えられることは、私たちは、それぞれの心の中心にあることが言葉となり、同時に、私たちの言葉が私たちの心の中心になるように、聖霊様によって訓練される必要があるということです。つまり、真の勇気ある人生へと変えられていくことです。「勇気をだして」とは、「あなたの中心から湧き上る言葉を語りなさい」ということです。御子イエス様の人生は『真に勇気ある者』の人生でした。
清宣教師