詩篇74篇の歴史的な背景ですが、紀元前586年にイスラエルの首都エルサレムがバビロン軍によって滅ぼされ、その神殿も破壊され、汚され、廃墟となりました。それから10年後くらいの出来事と思われます。内容的には、作者は、イスラエルの国の荒廃と神殿の破壊の原因としてイスラエルの民の罪と不従順にあるということを認めています。しかし、それでもなお、神の約束に訴えて、不従順の罪の赦しとイスラエルとエルサレムの回復を主に祈り求めています。1節の牧場の羊とは、「羊飼いである主」と「牧場の羊であるイスラエルの民」という契約の関係に基づいています。つまり、主なる神とイスラエルの民は、羊飼いと羊という特別の契約の関係にあることを根拠に、主に訴えています。2節の「贖われた民」とは、かつてエジプトで奴隷であった時、イスラエルの民をエジプトの国から脱出させて、ご自分の民を贖われたことを指しています。3節の「永遠の廃墟」とは、エルサレムが廃墟のまま、放置されていることを指しています。4節の「集会」とは、おそらく、神殿のことと思われます。8節の「集会所」とは、後の時代の会堂のことではなく、おそらく、地方で行われた各種の祭のことと思われます。9節の「私たちのしるし」とは、イスラエルの民の特徴である、安息日や定例の祭のことを指していると思われます。14節の「レビヤタン」とは、エジプトの王パロを比喩的に表していると思われます。22節~23節は、イスラエルの恥は、つまり、その神である主の恥であるということを理由に、イスラエルの敵どもから、イスラエルを救いだして、秩序を回復して下さいという祈りです。昨日の詩篇73篇では信仰者が直面する疑問のひとつ、この世の繁栄の中で、神を軽んじている人たちが、何の苦痛もなく、堂々と、繁栄を楽しんでいる姿に対して躓いている自分、すべりやすい自分の姿、妬みの中で苦悶している自分の現実の問題を取り上げました。今日の詩篇74篇では、一転して、敗北と恥辱と絶望的な境遇の中で、「なぜ、神は放っておかれるのか」という自分の疑問を取り上げています。いずれも、信仰者がみな、直面する疑問であり、大きな課題です。3千年の時を超えて、いつも、信仰者は同じような疑問、課題に直面するのだということを実感します。
今日の聖書箇所から教えられることは、どんな状況であっても、主に信頼することです。きょうも、私たちは感謝と賛美と祈りのことばを刻みましょう。そうすれば、主の前に変わることのない歴史が、刻まれていきます。永遠の御国を目指して、いま、感謝と賛美と祈りの足跡を残しましょう。
清宣教師