詩篇75篇の背景としては、アッシリアのセナケリブがエルサレムを包囲し、エルサレムは絶体絶命の状況の中に置かれましたが、主の介入により、一夜にしてセナケリブが敗退したという歴史上の出来事にあると思われます。1節では、最近の神の救いのわざについて感謝を捧げています。2節から5節は、預言的な権威で語られた神のことばです。「わたし」が、強調されていますが、主なる神のことです。神は御計画に従い、適切な時に裁きをなすことを宣言されています。3節は、世界は神の建物であり、神は、「地の柱」としての神の秩序、道徳を堅く立てられます。4節-5節は、悪人に対する預言的な神の裁きの告知です。セナケリブの軍勢をひきいたラブ・シャケの高慢無礼なことばを思い起こさせます(イザヤ書36章4節以下、37章23節)。6節では「高く上げる」とは、神による救いの介入を表しています。7節では、神は裁く方であることを示しています。イザヤ書33章22節に「まことに、主は私たちをさばく方、主は私たちの立法者、主は私たちの王、この方が私たちを救われる。」と記されている通りです。8節の「杯」とは、人の運命を表します。「よく混ぜ合わされた、あわだつブドウ酒」とは、薬草やスパイスなどを混ぜて飲みやすくし、酔いを効かせるようにした酒のことです。(カクテルのようなもの?)。悪人は神のさばきの酒を飲み干してしまう。9節は預言者と共に、告白する正しい者の賛美と誓いと勝利の確信の宣言です。10節は、預言者が取り次ぐ神の裁きのことばです。裁きは必ずなされます。先走ったあせりを戒め、また、正しいものに信頼と希望をあたえる約束のことばです。私たちの置かれている状況も、非常に不安的な状況の中にあります。テレビや新聞などのニュースを聞き、解説者のリポートを聞き、専門家の意見を聴く時に、知らず知らずのうちに、その中に取り込まれてしまいます。しかし、彼らはみな、例外なく、創造主なる神を抜きにした報告であり、解説であり、分析です。そういう意味では、きょうの詩篇75篇のように、主が預言者を通して語られる人類の未来に関する絶対的な権威ある宣言によって、私たちの原点に引き戻していただく必要があります。主こそ、宇宙の創始者であり、地球や生命や人類の創始者です。そして、そのおかたが、初めから計画をもって、秩序を定め、永遠のいのちにいたる道を示してくださっております。昔から、この世は流動的で不安定で破壊的でした。それは人間が、創造主の主権を認めず、人間中心主義の主権をもって、それぞれの国々の歩みを進めてきたからです。
今日の聖書箇所から教えられることは、創造の秩序が回復される時が来るということです。最終的な裁きの時が来ます。きょうも祈りましょう。「天の父なる神様、御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行われるとおり、地でもなされますように。」日本の国に、仙台の地にリバイバルが起こりますように。
清宣教師