詩篇78篇は長い詩篇ですが、マソラ学者(旧約聖書の写本の作成にあたる専門家)によると、73篇の36節は詩篇全体のトータルの節(2527節)の真ん中にあたる、と言われています。この詩篇は、読んで分るように、イスラエルの歴史を通して、神のみわざを忘れることがないように警告を与えています。内容としては、エジプトからの脱出からダビデ王朝の時代を扱っています。北王国は滅亡し、南王国ユダとエルサレムの神殿は存在している時代のことです(69節参照)。過去において繰り返された民たちの不従順と忘恩を強調することにより、南ユダが同じ過ちを繰り返して滅びることがないように戒めている詩篇と言えます。1節―8節は、この78篇の目的を述べています。9節以降は、荒野における神の驚くべき恵みとそれに対するイスラエルの忘恩の繰り返しについて述べています。12節の「ツォアン」とは、ゴシェンのことで、ナイル川の三角州の北西部にあったヒクソス王朝時代の首都があったところです。25節の「御使いのパン」とは、前節にある「マナ」のことです。26節~31節は、「うずら」の奇蹟のことです。32節―39節は、荒野における神の懲罰が、イスラエルの民の一時的な悔い改めを引き起こしたことと神の忍耐が宣べられています。39節の「返ってこない風」は、三浦綾子の小説の題名「帰り来ぬ風」となっています。40節からは、繰り返されるイスラエルの民の忘恩を思い出させるために、出エジプトの時に示された神の大いなる御業について述べています。56節からは、カナンの地での不信仰、士師の時代の暗黒の状態が示されています。65節―69節は、神の憐みによる救いと、エフライムの代わりにユダが選ばれ、シロの代わりにエルサレムが選ばれたことを宣べています。70節からは、ダビデが神の民の牧者として選ばれたことを宣べています。イスラエルの民の歩みが、手に取るように、明らかにされています。その中で、主なる神の変わらない愛と誠実を浮き彫りにするとともに、一方で、神の民と言われるイスラエルの民の忘恩の繰り返しを浮き彫りにしています。
今日の聖書箇所から教えられることは、私たちにも、あてはまります。自分の人生を振り返り、ノートに記すなら、イスラエルの民と同じように、主の真実と愛が浮き彫りにされる一方で、私たちの不信仰、不真実が見えてきます。しかし、主の御恵みは、主を恐れる者の上に大きく、 東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離されるお方です(詩篇103篇8節―14節参照)。主をほめたたえます。
清宣教師