今日は詩篇89篇です。表題にある、エズラフ人エタンについては、列王記第1、4章31節に、エタンは知恵ある者のひとりとして名前が記されています。歴代誌第1、15章17節、19節には音楽指導者の一人として記されています。この詩篇の主題は「神の約束と真実を信じ期待する信仰の表明です」。内容的には、1節―37節までと38節―51節までのふたつの部分からなっています。最初の1節―4節は序論です。ダビデ契約において示された神」の恵みと慈しみを賛美しています。5節以降は、天における神賛美が記されています。その中で、9節―13節までは、自然における神の創造と摂理のわざを賛美しています。19節―37節は、カギカッコの中に入れられていますが、これはサムエル記第2,7章のダビデ契約の回顧です。以上、前半(1節―37節)は、ダビデ家に対する神の恵みと慈しみの約束が記されています。後半(38節―52節)は、バビロンによるエルサレムの神殿の破壊、ダビデ王朝の崩壊の現実が記されています。この詩篇の作者は、バビロン捕囚の時期に、この詩篇を記したものと思われます。38節以降、悲惨な現状の中でなお、神の真実を信じて、神の求める叫びから始まっています。神への抗議ともいえる内容となっています。そして、46節―51節は、抗議のあとの熱心な祈りとなっています。生きているうちに、神の真実のしるしを見たいと願っています。なぜなら、いのちは短いからです。52節は、詩篇の第3巻(73篇~89篇)のしめくくりとしての頌栄となっています。イスラエルの民は、もろもろの歴史的な変遷を通して、大きな時代の流れに翻弄されているように見えます。しかし、その根底には、神と神の民という契約があり、それは決して変わることがありません。アブラハムの契約、モーセの契約、ダビデの契約などがあります。百年、二百年、・・・数百年、千年、二千年・・・という流れの中で、イスラエルの民の中には、いつも、神を信じる少数の群が残されていました。残りの民と呼ばれています。残りの民は、不信仰な多くの民の中にあって、主を信じ、主の約束を信じて神に祈る人たちでした。彼らは、アブラハムやモーセやダビデに対する神の契約を握りしめて、過酷な現実の中で、祈り続けた人たちでした。彼らの祈りこそ、イスラエルの民を救い出すものでした。しかし、彼らが生きている時代に成就したかというと、そうではないものの方が多かったように思います。紀元後70年のローマ軍によるエルサレム崩壊の後、流浪の民となった残りの民は、約1900年間にわたり、祈り続けました。そして、1948年にイスラエルの国が再建されました。御国において、後世の民たちが、祈り続けてくれた残りの民たちに、心からの感謝を捧げることと思います。
今日の聖書箇所から教えられることは、神のご計画は、ある意味、長期的であり、壮大です。私たちの目は、近視眼的であり、祈りが聞かれないといって挫折することがあります。しかし、祈りは天に届いており、無駄になることはありません。日本の国が、創造主を知り、創造主を礼拝する民へと変えられるために、リバイバルを求めて祈り続けましょう。
清宣教師