今日の個所、1節―3節:「杉の木」、「モミの木」、「バシャンの樫の木」、「牧者たち」、「若い獅子」、の表現はみな、外観上、立派に見えるものです。つまり、南ユダの指導者たちのことを例えています。4節―6節:南ユダの指導者たちは、バビロン捕囚という神の裁きを通しても、その体質は変わりませんでした。主が遣わされた総督ゼルバベル、大祭司ヨシュア、預言者ハガイやゼカリヤなどの助けにより、エルサレムの神殿は再建されました。しかし、神殿が再建されて、時が経ち、落ち着くと、指導者たちは、昔のように、自分たちの利得のために、民たちを利用するようになってしまいました。それで、主は彼らをもう一度、敵の手に渡すと警告されます。7節~14節:ゼカリヤは、主の命により、良い羊飼いとしての模範を示すことになり、羊を飼うこととなりました。羊飼いは、ふつう、2本の杖をもっています。一本は狼などの敵と戦うための真っ直ぐな杖、もう一本は、羊を導くために先の曲がった杖です。ここでは、ゼカリヤが2本の杖をもって、羊を飼うようになりました。一本は、「慈愛」、もう一本は「結合」という名前を付けた杖でした。そこで、まず、3人の悪い牧者を消し去りました(8節)。これは、王、祭司、預言者の3人のものを退けることを意味していると言われています。そして、王であり、祭司であり、預言者であるメシヤが支配されるようになることを示唆しています。そして、「慈愛」の杖を折りました。神と神の民の間にある慈愛の関係が断ち切られるのです。また、ゼカリヤは、商人たちから銀30枚で解雇されました。それは主の命により、宮の陶器師に投げ与えました。これは、イエス様を銀貨30枚で裏切ったユダが、受け取ったその銀を陶器師の土地に投げ込んだときに、成就した預言です。マタイの福音書27章3節―10節に、次のように記されています。「そのとき、イエスを売ったユダは、イエスが罪に定められたのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長、長老たちに返して、『私は罪を犯した。罪のない人の血を売ったりして』と言った。しかし、彼らは『私たちの知ったことか。自分で始末することだ』と言った。それで、彼は銀貨を神殿に投げ込んで立ち去った。そして、外に出て行って、首をつった。祭司長たちは銀貨を取って、『これを神殿の金庫に入れるのはよくない。血の代価だからだ』と言った。彼らは相談して、その金で陶器師の畑を買い、旅人たちの墓地にした。それで、その畑は、今でも血の畑と呼ばれている。そのとき、預言者エレミヤを通して言われた事が成就した。『彼らは銀貨三十枚を取った。イスラエルの人々に値積もりされた人の値段である。彼らは、主が私にお命じになったように、その金を払って、陶器師の畑を買った。』。銀30枚とは、奴隷のひとりの値段であり、たいした価値がないことを示す値段でした。ゼカリヤ書11章13節の「尊い値」というのは、強烈な皮肉です。そして、「結合」という杖も折られました。つまり、「慈愛」も、「結合」という主の主の民の間の契約も、破棄されたのです。15節―17節:主は、ゼカリヤに対して、前(7節―14節)には、「良い牧者」の役割をさせたのに、ここでは「悪い牧者」の役割を演じさせています。ひづめを裂くとは、ひづめの間のほんのわずかの肉をも食べ尽くすという貪欲さを表しています。悪い牧者は、民たちの持ち物を、徹底的に自分たちの利得のために搾り取るのです。そのような貪欲な指導者に対する審判がなされます。
主イエスさまこそ、まことの牧者、「慈愛」と「結合」をお与えくださる牧者です。
清宣教師