「罪と汚れを清める一つの泉が開かれる」(13章1節)。ひとりの神の御子、キリストの血潮により、罪がきよめられることを預言するものです。「その日」とは、福音の時代をさしています。12章からの流れで言えば、恵みの霊が注がれ、民は罪を嘆くようになる。それは絶望ではなく、十字架を仰ぎ見るとき、罪の赦しと慰めの希望と喜びに代わるべきものです。
2節~6節にかけて、「わたしは偶像の名をこの国から断ち滅ぼす」と言われており、偶像、汚れた霊、そして、偽預言者を除くと主は言われます。私たちの三大敵は、「サタン」と「世」と「肉」です。これらのものが、キリストの十字架の血潮により、滅ぼされます。「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまな情欲や欲望と共に、十字架につけてしまったのです」(ガラテヤ書5章24節参照)。
7節~9節では、「剣よ。目を覚ましてわたしの牧者を攻め、わたしの仲間の者を攻めよ。牧者を打ち殺せ。」神は、全人類の罪を背負ったメシヤを、神の剣で攻め、ついには十字架の上で刺し貫いたのです。キリストは私たち罪人の仲間となり、そして、私たちが受けるべき神の刑罰をみずから受けて下さったのです。キリストが十字架で殺され、弟子たちは散り散りバラバラに逃げました。一方においては、ローマ軍により、ユダヤ人の撲滅が行われ多くのユダヤ人が死に絶えました(紀元70年)。一方で、残りの民は主イエスキリストを信じて、初代教会の中核をなすに至りました。激しい迫害のなかで練りきよめられました。「3分の2は断たれ、3分の1が残る。わたしはその3分の1を火の中に入れ、銀を練るように彼らを練り、金をためすように彼らをためす」と言われた預言が成就しました。一方で、やがてきたるべき、終末時代の大患難時代に成就する預言であるとも言われています。
すべての歴史、世の動きも、神の御手の中にあります。私たちの使命は、「神のみこころが天においてなるように、地においてなりますように、御国が来ますように」との祈りの実現です。心を奮い立たせて、ともに祈りましょう。
清宣教師