第3章1節~7節では、ゼカリヤは一つの幻を示されました。それは地上ではなく、天において起きている出来事でした。主の前に、大祭司ヨシュアとサタンが立っているのを見ました。サタンは大祭司ヨシュアを汚れたものとして訴えようとしているのでした。実はバビロン捕囚から帰国した祭司たちは、主の祭壇に傷のある動物やあるいは盗んだ動物などを捧げたり、律法をあなどるような行為をする者たちが多かったようです。このような状況の中で、ゼカリヤは天における幻を与えられたのです。大祭司ヨシュアは、自分自身も弱さを身にまとっている大祭司に過ぎませんでした。それは主の前に立つ大祭司ヨシュアが汚れた服で立っているという表現から分ります(3章3節)。サタンは、これをもってヨシュアが大祭司としてふさわしくないことを訴えていました。それに対して、主は、一方的に、恵みを施されました。ヨシュアの汚れた服を脱がせて、礼服を着せたのです。そして、主は宣言しています。「わたしは、あなたの不義を除いた。」(4節)。そして、きよいターバンもかぶらせてもらいました。こうして、大祭司ヨシュアは、その職務に復職することが出来ました。最後の3章8節~10節は、メシヤ来臨と世界宣教の約束のことばです。
私たちは、この地上での出来事に目を奪われて、天において何が起こっているのか知らないで過ごしていることが多いように思われます。実は、霊的な指導者たちに対して、サタンはつねに、その失敗や弱点を見つけて、主の前に訴えているのです。これに対して、地上での執り成しの祈りがあるときに、主はその祈りを聞かれて、一方的に恵みを施されます。汚れた服を脱がせて、キリストの新しい服を着せて下さいます。こうして、彼らはその職務を続けることができるのです。もし、私たちが霊的なリーダーたちの弱さや罪を責めるのであれば、それは主のみこころではありません。主はその人を選び、立てられました。ですから、私たちと同じ弱さや罪の性質をもつリーダーたちのために、執り成し祈ることです。それは主のみこころにかない、主は喜んで、リーダーたちの弱さや罪を取り除いて下さいます。私たちもまた、ゼカリヤのように、「主よ、彼のあたまに、きよいターバンを被らせなければなりません」と叫ぶなら、リーダーたちは、そのとおりに、きよいターバンをかぶらせていただき、私たちのリーダーとして、ますます油注ぎをうけて、良きリーダーとなるのです。
清宣教師