8番目の最後の幻は、4台の戦車が青銅のふたつの山の間から登場するものでした。青銅の山は不動の山をあらわしており、神の臨在をあらわしていると解釈されています。戦車と訳されているヘブル語の原語は、メルカーバーであり、古代の2輪戦車のことです。それぞれの馬の色ですが、戦いと流血を表す赤、飢餓と疫病と荒廃を表す黒、慰めと繁栄を表す白、混合をあらわすまだら毛、というような解釈がなされています。ある人は、ダニエル書に記されている歴史上の4つの王国を示していると解釈しています。すると、赤い馬がひく戦車はバビロン、黒い馬がひく戦車はペルシャ、白い馬がひく戦車はギリシャ(マケドニヤ)、まだら毛の馬がひく戦車はローマである、となります。しかし、共通の理解は得られていません。さて、6節に北の地へ出て行く黒い馬のことが記されていますが、北とはバビロンの地のことです。黒い馬は、バビロンの地に敗北と絶望をもたらし、あとにつづく白い馬は、バビロンを征服したペルシャかギリシャのアレクサンドロス大王についての預言であると解釈されています。一方、南とはエジプトの地のことであり、まだら毛という表現から、災いと繁栄のまじりあった状態をもたらすことを表しています。7節の強い馬とは、特別の使命を帯びて守りの役目をしていると思われます。北の地で、イスラエルを圧迫したバビロン、ペルシャ、ギリシャ、ローマに対して主は報復されるので、神の怒りは静まるのです。
9節~15節は、一連の幻の紹介の間に挿入された出来事です。当時、大部分のユダヤ人がバビロンに留まっているとき、3人のユダヤ人が金や銀を携えてエルサレムへ派遣されてきました。ヘルダイ(健全であるという意味)、トビヤ(神は恵み深い)、エダヤ(神は知りたもう)という名前の3人でした。ゼカリヤは主が命じられた通り、贈り物の金と銀を用いて冠を造り、これをヨシュアの頭にかぶらせました。冠は原文では複数形、これを受ける動詞は単数形であることから、この冠とはエジプトのパロの王冠のように、金と銀の二重王冠であったろうと推測されています。大祭司ヨシュアが戴冠されたという事実は、本来、不可能なことでした。つまり、祭司は宗教面での指導者であり、王は政治面での指導者でした。ふたつの権力は、厳密に分けられていました。ここで、大祭司ヨシュアに戴冠させたことは、神の計画の中で将来あらわれる「祭司と王のふたつの職務を兼ね備えるメシヤ」の雛形だったのです。その若枝(メシヤの称号)は、主の神殿を建てなおすのです。祭司であり王であるキリストが神殿を建てなおされるという預言です。この神殿とは何を意味するのでしょうか。「キリストの体なる教会」を指していると解釈されます。あるいは、千年王国の時代に建てられる神殿ではないかと考える人もいます。メシヤは神殿を再建するだけでなく、王と祭司のふたつの職能を兼ね備えている人物です。
メシヤに関する預言は、旧約聖書のあちこちに散りばめられていて、分りにくい部分もあります。なぜなのか、考えてみました。やはり、メシヤの到来を必死になって妨げようとしているサタンの存在が大きいと思いました。一方で、神の民があちこち尋ね求めて知識を増し加えるようにとのご配慮かも知れません。私たちは、聖書の中で分りにくい部分もありますが、神のみことばには変わりありません。聖霊様の導きが良くわかるまで私たちが成長するときに、問題は解決します。聖書そのものに問題があるのではなく、私たちの理解の能力に問題があるのです。真理は深く、豊かですから、いろいろ、新しい発見をすることができるのです。
清宣教師