3章は、1節-5節が救いを拒んだエルサレムです。1節、「ああ。反逆と汚れに満ちた暴力の町。呼びかけを聞こうともせず、懲らしめを受け入れようともせず、主に信頼せず、神に近づこうともしない。」ということばで始まります。主の御声を聴こうとしない頑なな町は、主の裁きを受けることになります。首長たちは、主のしもべとして、公儀と正義を行い、民に仕える使命を与えられているにもかかわらず、このユダの首長たちは、「ほえたける雄獅子」、「日暮れの狼」のように、自分の利得のために民の財を搾取して私腹を肥やしています。だから、この町は、神の裁きにより、廃墟となるのです。
6節―8節は、エルサレムは、バビロンにより、完全に滅ぼされるとの預言です。「わたしの憤りと燃える怒りをことごとく彼らに注ぐ。まことに、全地はわたしのねたみの火によって、焼き尽くされる。」。
9節―10節は、回心です。主は、恵みによって、「国々の民のくちびるを変えてきよくする。彼らはみな主の御名によって祈り、一つになって主に仕える。」と言われました。刑罰をうけてのち、主のもとに帰るのです。
11節―13節は、きよめです。「わたしは、あなたの中からおごり高ぶる者どもを取り去り、あなたはわたしの聖なる山で、二度と高ぶることはない。わたしは、あなたのうちに、へりくだった、寄るべのない民を残す。彼らはただ主の御名に身を避ける。」へりくだった民とは、寄る辺のない民です。人間は寄る辺を求めて生きています。そして、寄る辺があるときには、神に頼らずに、高慢に、自分で生きると豪語します。しかし、どこにも、頼ることができないとき、初めて、主なる神に頼るようになります。
14節―17節は、喜び、歌えです。「心の底から、喜び勝ち誇れ。主はあなたへの宣告を取り除き、あなたの敵を追い払われた。イスラエルの王、主は、あなたのただ中におられる。」主イエス様は、私たちを訴える罪の数々を、十字架の上で贖って下さり、罪状書きを無効にしてくださいました。「恐れるな。気力を失うな。 あなたの神、主は、あなたのただ中におられる。救いの勇士だ。主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。」「気力を失うな」の原語の意味は、「手をだらりと下げるな」という意味だそうです。祈りの手をあげることができないほど、気力を失っている状態です。しかし、主は救いの勇士です。あなたを決して放っておかれず、勝利をあたえてくださいます。
18節―20節は、ほまれの回復です。「見よ。その時、わたしはあなたを苦しめたすべての者を罰し、足のなえた者を救い、散らされた者を集める。わたしは彼らの恥を栄誉に変え、全地でその名をあげさせよう。」足が不自由であったり、人々からのけ者にされ、恥を受けていた者たちは、再臨のとき、名誉を回復します。何故なら、主が、この足の不自由な人たち、人々からのけ者にされていた人たちを前にして、「あなたはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」とすべての人たちの前で宣言されるからです。
祈るのに疲れている人はいませんか?少し前まで、私がそうでした。無気力でした。祈る力を失いました。しかし、きょう、主は、わたしのことを高らかに歌って、わたしのことを喜ばれる、と宣言して下さっているのです。天の父よ。感謝します。わたしはあなたの愛の中に、そして、御子イエス様の祈りに包まれて生きています。
清宣教師