詩篇111篇と112篇は、アルファベット歌で、構造や用語に共通点があります。111篇は、神の力、善意、義。救いのわざに対する賛美であり、112篇は髪を畏れる者の繁栄、祝福の様子を描いています。捕囚帰還後の歌で、古い詩篇と箴言から引用がなされています。
1節~3節では、定例の公けの集会で、「主に感謝しよう」と呼びかけがなされています。それは主のみわざが偉大であるからです。主の偉大なみわざは自然界にも見られ、また、イスラエルの救いの中にも見られるからです。4節の「記念とされた」とは出エジプトの出来事です。5節は、荒野におけるマナの出来事です。「契約」とは族長たちとの約束です(出エジプト記2章24節、6章5節参照)。6節と7節は、異邦の民の土地であったカナンの地をイスラエルに与えたことにより、主が約束されたことを誠実に果たされたことを賛美し、シナイ山での戒めはカナンの地において確かなものとされたことを賛美しています。9節の「御民に贖いを送り」とは、最初の贖いは、出エジプトの出来事とカナンへの入国の出来事を指しており、第2の贖いは、バビロンからの帰還と国の回復の出来事、第3の贖いは、キリストによる贖いを指していると考えられています。10節では、主を畏れることこそ、知恵の初めであり、単なる知識の習得が知恵ではないこと、また、真の知識を人生に適用して実行する人こそ、知恵のある人であり、永遠に堅く立つ人であることを明らかにしています。
今日の聖書箇所から教えられることは、すべての時代を通じて、「主のみわざは偉大で、みわざを喜ぶすべての人々に尋ね求められる」(2節)と記されている通りです。主のみわざを見抜き、それを喜び、感謝する時、さらに、主の御業を見ることになります。きょうも、主のみわざを見抜き、喜び、感謝する日となりますように。
清宣教師