今日の詩篇135篇は、イスラエルの三大祭(過ぎ越しの祭、七週の祭、仮庵の祭)で歌われた公けの式文のひとつと考えられています。おそらく、過ぎ越しの祭の時に歌われたと考えられています。
1節~4節は、賛美への招きです。1節では、主のしもべたちへの賛美の呼びかけ。2節では、とくに、神殿あるいは神殿の境内で奉仕にあたる祭司たちやレビ人たちに対して、呼びかけています。3節で、まことにいつくしみ深いお方、主を賛美するように勧めています。4節では、主がイスラエルを選んでご自分の宝とされたことを改めて、強調しています。ここで、ヤコブとイスラエルは、同意語として使われています。
5節~18節は、主を賛美する動機について語られています。5節の「知る」とは、知識だけでなく、自分たちの体験として知っているという意味です。主は、天においても、地においても、また、不安定なものの象徴である海でさえも、ご自分の意のままに治めておられます(6節)。そして、雨や風の気象さえ、治められるお方です(7節)。一方、出エジプトの際には、エジプト人に対して刑罰を与え、エジプトからイスラエルの民を救い出し(8,9節)、カナンの約束の地にイスラエルの民たちを引き入れて、相続させて下さいました(10節~12節)。主の御名は特別の名であり、異邦の民たちの偶像とは、まったく、並べることが出来ない、比類のない存在です(13節~18節)。
19節~21節は、再び、賛美への招きで締めくくられています。賛美の呼びかけが、「イスラエルの家」、「アロンの家」、「レビ人の家」、「主を恐れる者」という順番で、なされています(19節、20節)。つまり、神の民全体への呼びかけから、神殿で仕える者たちへの呼びかけ、そして、再び、神の民の中の忠実な信仰者へと呼びかけがなされています。主が特別に神殿に仕える者として聖別された奉仕者たちも、民たちも、また、忠実な信仰者もみな、神への賛美に招かれています。その対象となるのは、主なる神、シオンを選び、エルサレムの神殿に住まわれるお方です(21節)。
今日の聖書箇所から連想されることは、キリストの教会は、人間の体に例えられています。そして体には、眼や耳や口や、それに手や足、心臓や胃などの内臓などの異なる器官があります。しかし、どの器官であれ、本質的には体の一員として例外なく、一つのいのちに連なり生かされています。私たちはいのちの主に連なる者として永遠に、共同体(神の家族)の一員として、主をほめたたえます。
清宣教師