きょうの詩篇は、1節に、「バビロン川のほとり」と記されています。南ユダ王国がバビロン帝国に滅ぼされて、ユダの民がバビロンに捕囚となった時の出来事であることが分ります。この「川」は、複数形です。また、自然の川ではなく、人工的に掘られた用水路(運河)を意味する言葉です。バビロンの平野には、多くの用水路が網目のように造られていました。そのような用水路のほとりでの出来事です。
私たちはみな、そこに座り(寄留して生活している)、遠く、故郷のシオン(エルサレムの神殿のある丘)を思い出して泣いていました。それは、敵のバビロンの民が、ほんの座興として、「お前たちの神はどこにいるのか、お前たちを救えなかった神をたたえる歌を歌え」と命じたからです。しかし、どうして、私たちは、異国の民たち、私たちの神を侮る者たちの要求で、歌を歌うことができるだろうか。そんなことは到底できない。だから、私たちは川のそばの柳の木(ポプラの木とも考えられる)に竪琴をかけて、彼らの要求を拒否したのです。5節と6節は並行法で、5節の内容を6節で強めています。もし、私たちがあのエルサレムを忘れたら、私の右の手が竪琴を引けなくなるように、エルサレムを思い出さないなら、私の舌が上あごについて賛美ができなくなるように。ああ、どうして、あの相続の地、エルサレムの都を忘れることがあろうか。絶対に、あり得ない。
主よ。思い出してください。彼らがエルサレムを破壊した日のことを。彼らに報復してください。バビロンの娘よ(この娘とは、バビロンの住民たちのことです)。8,9節で、報復を願っていることから、バビロンに捕囚となり、まだ、それほど、歳月が経っていないときの出来事と考えられます。じつは、やがて、捕囚の期間(70年)が過ぎ、ユダの民は、祖国の地に帰る時が来るのです。それは、いつも、祖国のこと、エルサレムのこと、そして、神の約束を忘れなかったからでした。
今日の聖書箇所から教えられることは、私たちもこの地上では、旅人であり、寄留者です。私たちの国籍は天国にあること、そして、ヨハネの福音書14章1節~3節の主の約束を覚えて生活しましょう。「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」
清宣教師