9章は、大きく二つに分かれます。前半は、知恵の招き(1節―6節)です。後半は愚かな女の招き(13節―18節)です。そのふたつを対比させています。そのふたつの間に、知恵のある者と嘲る者(7節―12節)が描かれています。さて、1節~6節の知恵の招きでは、まず、知恵は自分の家を建てます。両側に3本ずつ、真ん中に1本の柱です。入り口は広く開けられており、だれでも、ここに来なさい、と招いています。とくに、わきまえのない者たちを招いています。そして、「わきまえのない者」に対しては、「わきまえのないこと」を捨てて生きるように勧めています(6節)。次に、7節~12節では、「あざける者を戒めてはならない」(7節、8節)と記されています。彼らは教えを聞いても憎むだけであるからです。他方、知恵ある者を教えるように勧めています。彼らは、知恵に耳を傾けるので、教えることにより、彼らは、一層、理解を深めて知恵ある者となるからです(8節、9節)。13節~18節では、愚かな女の招きです。「知恵」の場合と対照的です。彼女は「町の高い所」にある座に座り、「知恵」と同じように、道行く人に呼びかけます。「わきまえのない者だれでも、ここに来なさい」。また、思慮に欠けたものを招きます。「盗んだ水は甘く、こっそり食べる食べ物はうまい」と悪の道に誘うのです。これは万引き常習犯の人たちを誘惑するサタンの手口のようです。善悪の知識の実を食べるようにささやいたサタンは、私たち人間に対して、悪には自分たちが知らない魅力があるように見せかけるのです。しかし、その人は、サタンの策略の中で、そこは死者の霊とよみの深みに通じる滅びの深みにいることに気付かないのです。
今日の聖書箇所から教えられることは、神のまことの知恵は、隠されているのではなく、私たちを招いているという事実です。一方、サタンの手先に用いられている者たちも、私たちを誘惑しているという事実です。私たちは、主イエス・キリストにあって召された者です。神のみことばにより、善と悪を識別しなければなりません。両刃の剣である、神のみことばを用いて、敵を断ち切るように勧められています。
清宣教師