1章の補足ですが、新改訳聖書では「伝道者の書」となっています。これは冒頭の1節の「伝道者のことば」から名付けられたものです。ヘブル語ではコーヘレス(伝道者)となっています。一方、新共同訳聖書では「コヘレトの言葉」と名付けています。これはコヘレトを固有名詞(この場合は人の名前)として使われていると解釈したからです。さて、1章で、伝道者は真理の探究の旅を始めます。まず、知恵と知識の探求から始まりました(1章12節―18節)。しかし、「日の下」では真の知恵を見出すことは出来ませんでした。今日の2章では、人生の知恵と知識の空しさを体験した伝道者が、「快楽」の中に答えを得ようとしています(1節‐11節)。その中には、酒、事業の拡大、財産の拡大、多くのそばめをもつことも含まれていました。しかし、あらゆる快楽を求めましたが、満足はなく、空しさだけが残りました。ところで、4節―8節にかけて、日本語の聖書では省略されていますが、原文では、「自分のために」ということばが8回使われています。例えば、4節は「私は自分のために事業を拡張し、自分のために邸宅を建て、自分のためにぶどう畑を設け・・・以下同様」という文脈です。ルカ12章15節ー21節でイエス様が語られた例え話の中で、金持ちの人が「私の穀物、私の財産、私の・・」と言っているのと同じです。自分のために生きる人生、神なき人生の空しさを述べています。次に伝道者は「労苦」を求めました(12節―26節)。ここでは「労苦」やや「骨折り」ということばが8回繰り替えされております。しかし、「日の下」では、すべての人が結局は同じ結末、つまり、死に至ります。しかもその一生は悲しみであり、その心は夜も休まらない(23節)ということで、どうせ、死ぬなら、すべての労苦には意味がないではないか、という結論に達するのです。結局、24節―26節で、人生の意味の探求はやめて、とにかく、神にあって、今の生活を楽しく生きる以外にない、との結論に達します。これは中庸と言われる生き方ですが、注意が必要です。これは不完全な結論です。これは、主のみこころではありません。伝道者の書に「しかしながらの書」というあだ名をつけた人がいます。不透明で、これも空しいと否定の連続です。しかし、一切を否定しながら、最後に、ダイナマイトで、すべてを吹き飛ばすのです。つまり、12章13節の結論へと導くための1章から12章です。
今日の聖書箇所から教えられることは、創造主抜きの人生は空しいということです。逆に、創造主の前に生きる人生は、すべてが益となるという人生です(ローマ人への手紙8章28節)。アーメン。
清宣教師