1節―4節(捕囚の切迫):「ああ」という嘆きの強いことばで始まっています。これまで北イスラエルの背信について厳しく糾弾してきましたが、きょうは、南ユダの社会的不正を糾弾しています。正義と公正を司るものたちが、身寄りのない者たちを不当に扱っていること、これは本人たちの責任ではありますが、このような不正がまかり通っている背景には、社会全体の腐敗があります。ですから、これらの罪は、まことの神を礼拝することをやめた国民全体の罪であると鋭く指摘するのです。この神の裁きに対して、「一体、どうやってそれを避けるのか」、「誰が助けてくれるのか」、「どこに栄光(自分たちの業績、名誉、財産)を残すことが出来るのか」(3節)と畳み掛けるように問いかけて、どこにも神の裁きを逃れる道がないことを指摘しています(4節)。5節‐11節(アッシリアの高慢):「ああ」を繰り返し用いています。アッシリアについての神の考えを述べようとしています。今や、イスラエルの神の民は、「わたしの激しい怒りの民」と呼ばれています(6節)。主は、アッシリアをご自分の民を懲らしめる手段として用いるため、ご自分の民を守ることを控えて、アッシリアが主の民を蹂躙するにまかせました。しかし、アッシリヤはそうは考えず(7節)、自分たちの戦闘能力の優秀さ、占領政策の優秀さによると考えて、自分たちの力で大勝利を収めたと大言壮語しているのです。カルノ(北部アラムの町、紀元前738年に陥落)、カルケミシュ(前717年陥落)、ハマテ(前720年陥落)、アルパデ(前749年陥落)、サマリヤ(前722年陥落)、ダマスコ(前732年陥落)と勝利に次ぐ勝利で、エルサレムに迫っていました。それで、アッシリアは、どのような守護神をもつ国々もアッシリアの攻撃から身を守ることが出来なかった、だから、エルサレムの神も守り通すことはできないと考えていたのです(8節‐11節)。12節―19節(アッシリアへの罰):アッシリアは戦績をほこり、傲慢になっているので、主はこれを罰すると宣告されました(12節)。自分の力でやったと誇っているからです(13節)。しかし、アッシリアは、主が用いられた道具であり、用いられた道具が用いた主人に向かって声をあげるのはなんともおかしいことです(15節)。だから、主は天下無敵のアッシリアを退けられると宣告されました(19節)。20節―34節(主の救い):アッシリアは、主によって裁かれ、衰退し、その残りの者の数は、こどもでも数えられるようになる(19節)と宣告されましたが、一方、イスラエルもまた、主の裁きを受けて、少数のものだけが残ると宣言されています(20節、22節)。しかし、主の憐みは尽きることがありません。その残りのものはアッシリアの残りとは違い、主の憐みの中で、主に立ち返ります(21節、22節)。しかし、主がアッシリアを滅ぼすという宣告を信じることは容易ではありませんでした(23節)。なぜなら、南ユダ侵略を開始したアッシリアは、次々に北方の砦を破り、首都エルサレムに近づいて阻止できない状況にあったからです。とうとう、アッシリア軍は、エルサレムを完全に包囲し、陥落寸前まで追い詰めました(32節)。そのとき、万軍の主が行動を開始されるのです。背の高い林を切り落とされるように、主はアッシリアの高慢を切り倒されるのです(33節、34節)。
今日の聖書箇所から教えられることは、私たちクリスチャンは、社会的な不正と腐敗について、無関係であるとして逃げることはできません。主なる神は、私たち(教会)の役割放棄の罪として問われます。原発の事故も、私たち(教会)と無関係ではありません。私たち(教会)は、社会に義をもたらし、義を守る者としての役割があるのです。
清宣教師