3章25節で、戦いの時、裁きの時、豊かなエルサレムの最後の情景が記されている。4章1節では、「その日」と記されている。バビロン軍によって滅ぼされ、エルサレムの城壁が崩され、エルサレムの町々が焼かれ、南ユダの民がバビロンに捕囚となる日のことである。また、同時に、世界の最後の裁きの日のことも預言している。多くの男たちの目を引いていた魅力あるエルサレムの娘たちは、7人の娘がひとりの男に、生活費は自分で持ちますから、名ばかりでも結婚してほしいと願う。シオンの高ぶりが恥の中に落とされる。シオンの娘とは、エルサレムの神の民全体をさしている。2節、その日、裁きの時、主の若枝が栄光に輝く、と預言されている。主の若枝とは、ダビデの子孫、メシヤであるイエス・キリストを指している。エレミヤ33章15節、ゼカリヤ3章8節、6章12節でも同じように預言されている。地の実とは、やはり、若枝を指しているのではないかと言われている。裁きの日は、不従順なもの、不信仰なもの、偶像礼拝をする者たちには、恥と不面目と恐ろしい裁きの時であるが、そこに、残りの者[レムナント]が残される。神は、社会全体が堕落しているように見えても、その中に、必ず、まことの神を礼拝する残りの民を隠されている。それは、希望の灯である。3節、シオンに残された者は聖とよばれる。「聖」とは「神のもの」という意味である。神は裁きの中で、一握りの残りの者を残される。残りの者こそ、希望のともしびである。5節、かつて、イスラエルの民が、エジプトを脱出して、砂漠(荒野)を行軍している時、主は昼は雲の柱となり、夜は火の柱となり、イスラエルの民を覆って下さったように、再び、あらゆる会合を守って下さる。「創造される」と約束されている。無から有の創造である。昼は雲となり、熱から守り、夜は火の輝きで、寒さから守られる。主は雛鳥が雌鶏の翼によって守られるように、また、仮庵のように。主はご自分の民を覆われ守られる。6節、隠れ家となられる。つまり、不信仰、不従順、高慢、偶像礼拝する者たちの裁きがなされるが、残りの者には、この日は、救いの日となる。世の終わりには、メシヤなるキリストの再臨により、残りの者に幸いがもたらされる。すべての動物たちにも平和が来る。イザヤ書65章17節―25節に記されている。
今日の聖書箇所から教えられることは、世の欲、目の欲に惑わされることなく、創造主を礼拝する者、真実と霊をもって神を礼拝する者として、きょう、主にあって歩むことです。この世は滅び去ります。神の子として生きて、主に栄光をお返ししましょう。
清宣教師