今日の32章のテーマは、「正義の主」です。28章、29章、30章、31章、33章と、すべて冒頭のことばは、「ああ」で始まる悲しみと怒りの章となっています。しかし、32章だけは、「見よ」ということばで始まっています。「見よ。」と注目するように呼びかけています。正義と公義がメシヤによって行われ、首長たちもこれにならいます(1節)。メシヤの統治は、霊的にも大きな変革をもたらし、人々は正しい啓示に信頼を寄せ、外見や欺瞞に騙されなくなります(2節~8節)。イザヤは宮廷に仕える王や高官たちに対してではなく、ここでは、宮廷に群がる貴婦人たちに対して警告を発しています。「のんきな女たちよ」と呼びかけ、主の裁きが迫っているにもかかわらず、その時のみせかけの平安や繁栄に満足していることを指摘しています。神の警告に耳を傾けないなら滅びてしまうのです(9節~14節)。14節で、「いつまでも荒れ地となり」と宣言しましたが、15節で、「しかし、ついには」と続けています。つまり、前節で不信仰への裁きを宣言したイザヤですが、ここで祝福のことばを宣言します。「上から霊が私たちに注がれ・・」と述べて、物質的な繁栄ではなく、霊的な祝福が豊かに注がれる時がくることを預言しています。「あの町」や「あの森」がどこを指しているかは明確ではありませんが、終末時代において神に敵対する世界勢力とその都を指していると考えられます。
今日の聖書箇所から教えられることは、主は、神の民を裁かれますが、そのまま、滅びの中に放っておかれることがないことです。必ず、深い憐みにより、一方的な恵みにより、最終的には救いのなかに導き入れて下さるのです。私たちの神は、恵みの神です。主を讃美します。
清宣教師