イザヤ書42章のテーマは、「主のしもべイスラエル」です。1節~9節は、主のしもべの働きです。41章の最後の29節で、「見よ」と言われて、偶像の空しさを指摘された主なる神は、42章1節で「見よ」といわれて、今度は、「主のしもべ」に注目するように言います。主のしもべは、神の民だけでなく、国々に、また、島々に、全世界に公義をもたらすのです。これは主が立てた計画と使命であるので、主のしもべは、これを必ず果たさなければならないのです。主は、主のしもべの重要な役割として、「民の契約とし、国々の光とする」(6節)ということが挙げられています。そして、霊的な暗黒の閉じ込められている者たちを解放する働きをするのです。10節~17節は、主への賛美です。主のしもべを通して世界中に驚くべき救いのみわざが、宣べ伝えられ、さらに、島々、高地、岩山にも及ぶのです。今や主の活動の時が来て(14節)、主は御力をもって神の民の解放を成し遂げられるのです。そして、主は闇と光に変え、道をたいらにして、解放の救いを与えられるのです(16節)。18節~25節は、愚かなしもべイスラエルがテーマです。主のしもべであるイスラエルの民ですが、現実には、耳の聞こえない者、目の見えない者となっているのです(18節)。盲人の目を開く使命を与えられているにもかかわらず、自分が盲目になっている状態です(19節)。主の御教えを広めるために選ばれた民なのに、略奪され、捕えられ、誰にも助けてもらえない状態に落ち込んでいるのです(22節)。しかもこれが主の教えに背いた結果であるということに気付いてほしいのに、まったく、無知であり、無感覚になっているのです(23節~25節)。
今日の聖書箇所から教えられることは、私たちも神のしもべとして期待されているということです。私たちは、神のかたちに造られていて、神様からの使命を与えられている者です。それはとても大きな特権です。それにもかかわらず、自分中心の生き方という泥沼に陥り、捕えられていないでしょうか。私たちは、神様の御前にあって、尊いしもべとして覚えられているのです。
清宣教師