49章から55章までは、苦難のしもべによる回復がテーマとなっています。さて、余談ですが、この49章2節は、私にとって忘れられない聖句です。私が牧師になってすぐのことでした。その当時、秋保シオン教会の牧師先生が夕拝に出席されていたのですが、私のメッセージが終わると、主からのことばがありますのでお伝えしますといわれたので、隣の母子室でお聞きしました。その時、先生から伝えられたのが、49章2節でした。私にとって、このようなことは初めての経験であり、とまどいました。しかし、その牧師先生が真剣な面持ちで語られたので、私も真剣に受け止めるべきだとわかりました。それで、みことばの意味を先生に伺いましたが、「これは高橋先生に与えられた言葉ですから、高橋先生が考えて下さい」ということでした。それで、私にとってどのような意味を持つか、考え続けてきた聖句です。今では、創造論宣教の働きへの召しであったと理解しています。また、2節の中で、「隠し」ということばが2回出てきます。それは、激しい敵からの攻撃に対して守って下さる、という約束であると理解しています。
さて、1節―6節は、主のしもべの働きについて述べています。主の働きは、イスラエルだけでなく、全世界に関係していると述べています(1節)。主は、「鋭い剣」、「研ぎ澄ました矢」として、しもべを用いられます。また、時が来るまでそのしもべを隠されます(2節)。このしもべとは、不真実なイスラエルの中から、忠実な主のしもべとして選ばれ、立てられた預言者と考えられます。あるいは、新約聖書との関連から、神の御子イエス・キリストを指していると考えることも出来ます。次に、7節―13節は、神の民の回復について述べています。主のしもべの働きは、イスラエルだけでなく、異邦人をも贖うことでした。主はしもべを助けてそのわざを完成させます。主のしもべに従う民は祝福され、忠実な羊飼いに導かれる羊のように、安全に導かれます。「シニムの地から」とは、ある人は「シニム」を「中国」と考えて、「地の東の果てから」と解釈しています。この贖いのみわざのゆえに、天も地も主をほめたたえ、喜ぶように命じられています。それは「主がご自分の民を慰め、その悩める者をあわれまれるからだ」と記されています(13節)。なんと素晴らしいことでしょう。最後に、14節―50章3節では、主の確約について述べています。「主は私を見捨てた」といって嘆く者がいます。それはシオンに住む、神の民です。それに対して、主は3つの答えを用意されました。ひとつは、15節―23節です。母と子の例えから、主は神の民の産みの親であり、その愛は、人間の親とは比べようがない永遠、不変の愛であると述べています。二つ目の答えは、24節―26節です。常識で考えれば、囚われたものを取戻し、解放することは不可能に近いですが、しかし、主にとって不可能なことはありません。主は「このわたしが救う」(25節)と宣言しています。3つめの答えは50章1節―3節です。主が見捨てたのではない、イスラエルの民が見捨てたのであると確認しています。その上で、イスラエルを救えるのは、主なる神のほかにいないことを覚えて、主に頼るように勧めています。
今日の聖書箇所から教えられることは、主なる神と私たちの関係です。主はわたしたちが母の胎内にいるときから御存じで、私たちに使命を与えられるお方です(5節)。主は私たちを助け、見守られるお方です(8節)。そして、わたしたちの名前をご自分の手のひらに刻んでおられるお方です(16節)。主は私たちの救い主、贖い主です(26節)。決して、決して、決して、わたしたちを放り出すお方ではありません。私たちを覚えて、十字架の上で、私たちの罪を背負って贖いを成し遂げて下さったお方です。主に信頼します。
清宣教師