イザヤ書56章-57章は南ユダの指導者の偶像礼拝の罪、58章は宗教指導者の自己義認の罪を指摘しました。今日の59章はユダの民全体に蔓延する罪(不正、わいろ、暴虐、殺人などの横行)を指摘しています。ユダの民の中には、このような危機に際して、なぜ、主は自分たちの祈りに答え下さらないのだろうか、主も他の偶像のように無力な存在なのではないか、という疑問を持つ人たちがいました。それに対して、主が無力だからではなく、民たちの罪が神との間の障壁となり、祈りが神のもとへ届かないのだと指摘しています(1節~3節)。そして具体的に、彼らの罪を、手、指、くちびる、舌、足、思いにおいて、つまり、全身すべてにおいて罪の働きに加担していることを指摘しました(4節~8節)。ところで、ここまでは「彼ら」という表現でしたが、9節以降、突然、「私たち」という表現に変わります。つまり、主のみこころに耳を傾けない民たちの中にあって、預言者イザヤのように、少数ではあっても、「彼ら」ではなく、「自分たち」の罪として真剣に受けとめている人たちがいました。主からの激しい非難の通りに、自分たちの国が罪にまみれ、不信仰の歩みをしていることを、「私たちの背きの罪は、私たちと共にあり、私たちは自分の咎を知っている」として、主の前に真実の悔い改めの祈りを捧げているのです(9節~15節前半)。主は、これに対して、主の決意を述べておられます。主だけが、真の義と救いをもたらすお方です。しかし、そのことを執り成す者がいないので驚いておられます。それでも、主は一方的に、ご自分の手で救いをもたらされます(15節後半~19節前半)。「西のほうでは主の御名が、日の上るほうでは、主の栄光が恐れられる」。まさに、日本は極東の東の端、「日の上るほう」です。「主は激しい流れのように来られ、その中で主の息が吹きまくっている」。極東におけるリバイバルの預言です。日本は昔から「日の上る国」として知られています。
今日の聖書箇所から教えられることは、忍耐をもって主の救いを待ち望むのですが、いつのまにか、自分たちの期待通りにならないので、失望し、不信仰に陥ってしまう危険性です。サタンは、私たちを不愉快にして、私たちが継続して執り成しをすることが出来ないようにします。忍耐とは、正しい態度で、主の約束を待ち望むことです。主の約束を信じて、主に委ねて、喜びつつ、日本の国のリバイバルのために執り成しを続けて生きましょう。
清宣教師