きょうの60章から66章まではイスラエルに対する希望のメッセージが記されています。終末時代に与えられる神の民への祝福、また、異邦の民をも含めた神の民への祝福について述べられています。1節:シオンに住む民に対する命令です。「起きよ。光を放て。」本来、創造の初めに、神はアダムとエバをご自分の形に造られ、ご自分の栄光を現す存在として造られました。しかし、人類は罪を犯して栄光を現す存在ではなくなりました。しかし、終末の時代、主の栄光が回復されるのです。シオンの民の栄光をみて、諸国の民が、まことの神を求めてやってくるのです(2-3節)。4節:目をあげて、東西南北を見回せ。異邦の諸国の民が、まことの救いを求めてやってくる。アラビア半島(ミデアン、エファ、シェバ、ケダル、ネバヨテ)の全域からやってくる(4~7節)。地中海の果て(タルシシュ)からも、地中海の島々からもやってくる(8~9節)。異邦の民もエルサレムの城壁をなおす。その門は、昼も夜も開いている。なぜなら、メシヤなる主が統治されるから、安全なのだ(10~13節)。14節:かつて、イスラエルの国を攻撃した敵たちも身を低くしてやってくる。喜びの町となる(14~16節)。エルサレムは、平和を管理者とし、義を監督者とする(17節)。つまり、平和の君イエス、義の王であるイエスが、この町の管理者であり監督者となる(17~18節)。太陽も月もその光は不要となる。主ご自身の栄光が光となるからである。嘆き、悲しみは消え去る。この町は神の民が永遠に所有するところとなる。小さい者も大きなものとなり、弱い者も強い者となる。きょうの60章は、契約の民であるイスラエルの民だけでなく、異邦の民も救いの中に入れられ、神の民の祝福、栄光、光、その地にあずかることの預言がなされている。なんと、幸いなことでしょう。
今日の聖書箇所から教えられることは、私たちの使命も、神のかたちに造られた者として、神の栄光をあらわし、周りの人々への証となることです。私たちの生き方を通して主の栄光を放つ存在になることです。そうなりたいです。「主よ。わたしを造り変えてください。主よ。わたしを用いてください。」イエス様の御名によってお祈りいたします。
清宣教師