8章からの幻が続いています。きょうの11章は、前半(1節―13節)がエルサレムにいる人々についての預言であり、後半(14節―21節)は、エゼキエルと共にバビロン捕囚となっている人たちに関する預言です。
1節に登場する神殿の25人と8章16節に出てきた祭司たちとは別の人たちです。ヤアザヌヤも8章11節に出てきたシャファンの子のヤアザヌヤとは異なる人物です。11章1節に登場するヤアザヌヤとペラテヤの二人は、エルサレムの町にいた政治的な指導者の二人です。2節:主は、エゼキエルに対して、この者たちがエルサレムで邪悪な計画を立てていると指摘しました。つまり、主のみこころはバビロン軍を用いて、エルサレムを滅ぼし、ユダの民をバビロンへの捕囚の民とすることでした。これが主の裁きの計画でした。ところが、ヤアザヌヤやペラテヤなどの政治的指導者は、この主の神殿のある聖都エルサレムは不滅であると主張し、一方で、エジプトと密約を取り交わしたり、主の御計画に敵対する邪悪な計画を立てていました。さらに、3節、彼らは「家を建てるにはまだ間がある。この町はなべであり、私たちはその肉だ。」と言っていました。ここでは「家を建てるにはまだ間がある」と訳していますが、ギリシャ語訳の聖書では、「家は、最近、建てられたではないか」と訳しています。つまり、彼ら指導者は、エルサレムは不滅であり、いまも、我々の手で、家々が立てられているではないか」と言ったのです。また、鍋と肉のたとえですが、鍋は鉄鍋であり、壊れにくいものです。このエルサレムの町は鍋である。難攻不落の町である。そして、鍋を意味あるものにするのは、その中にある上等な肉である。肉があっての鍋である。我々あってのエルサレムであると大言壮語していたのです。4節、だから、彼らに預言せよ、と主は言われました。5節―6節、あなたがた指導者は、自分たちの勢力の拡張のために、エルサレムにいる真実の民を刺殺し、悪事を行った。しかし、死体となった彼らこそ、まことの肉である。7節―10節、しかし、あなたがたはその肉ではない。あなた方が鍋と言っているエルサレムから、あなたがたを取りだし、他国人の手に渡す。11節―12節、私は、あなたがたをは国境で滅ぼす。その時、あなたがたはわたしが主であることを知る。この預言は、紀元前586年、北の方の国境のリブラで、バビロン軍がイスラエルの指導者たちを大量に殺害したときに成就しました。13節、そのとき、ペラテヤが死ぬのを見ました。エゼキエルは、主の前にひれ伏し、大声で叫びました。『残りの者たちをことごとく滅ぼされるのですか?』エゼキエルは、ペラテヤ(ヘブル語では、「主は残りの者を逃れさせる」という意味)や、エルサレムに残っている人たちが、主に選ばれた残りの民と思っていたようです。14節―16節、それに対して、主は、エルサレムにいる彼らは、あなたがたバビロンの捕囚の民となった者たちを見下して、「お前たちは神に見捨てられた者、我々こそ、聖都エルサレムの住民として選ばれたのだ。お前たちは出ていけ」と言っているではないか。しかし、エゼキエルよ。バビロンに捕囚となっているお前たちの中にこそ、わたしがいるのだ。お前たちの間で、わたしは聖所となっているではないか。17節、わたしは、あなたがたを、必ず、イスラエルの地に連れ戻し、その地を与える、と言われました。18節―21節、そのために、あなたがたの内側に、、一つの心、新しい心、新しい霊を与える。あなたがたの身体の中から石の心(頑なな心)を取り除き、肉の心(柔らかく、主のことばを受け入れる心)を与える。そうして、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。22節―25節、ケルビムと主の臨在は、エルサレムの神殿を去り、エルサレムの町の東の山(オリーブ山)の上に留まった。主は、サッと去られたのではなく、何度も何度も、立ち止まられた。去りがたい様子が描かれています。そうするうちに、主の霊がエゼキエルを、また、捕囚の地であるバビロンに戻しました。そこで、エゼキエルは、捕囚の民に、すべてを語り告げました。
清宣教師