主なる神様は、1章から3章まで、ご自分の民イスラエル(あるいは南ユダ)に対して、相続権をもつ主ご自身の子どもとして扱って語られてきました。しかし、イスラエルの民は主の御声に心を向けず、偶像礼拝の罪を犯し続けてきました。しかし、昨日の3章の最後の段落、22節の後半において「今、私たちはあなたのもとにまいります。あなたこそ、私たちの神、主だからです」と告白しました。そこで、今日の個所に入ります。1節:イスラエルよ。もし帰るのなら、わたしのところに帰りなさい」と語られました。続いて、もし帰るなら、忌むべき物(つまり、偶像)を捨てて帰ってきなさい。また、礼拝の時だけでなく、現実の生活において、また政治においても、社会的にも真実と公儀と正義とによって「主は生きておられる」と誓い、実行しなさい。そうすればイスラエルの国は周りの国々も、あなたがたを通して祝福される。白く塗った墓のように外面だけ良くするのではなく、中身をよくしなさい。3節:ユダの人、イスラエルの人に、主は語られます。『耕地を開拓せよ。イバラの中に種を蒔くな』。イスラエルの民の心の畑はどうか。その心は頑なで雑草(イバラ)が生えている。イバラの畑に作物の種を蒔いても育つはずがない。神のみことばに対して、表面だけ繕って宗教的な生活をしているように見せかけても無駄である。耕せ、鋤をもって土を切リ、切り取られて土の塊の上と下を反転せよ。雑草は、鋤によってすくい取り、上と下を反転せよ(天地返しという)。つまり、緑の茎や葉は土の下に敷かれて、真っ暗となり光合成ができなくなり、一方、根は空中にでるようになり、水を吸えなくなり、枯れていく。神のみことばを聞くだけ、つじつまあわせの生活に満足するな。鋤をもって天地返しをするように、心の中の雑草を枯らしてしまえ。神のみことばを聞くだけで満足するような生活はひっくりかえせ。今までの生き方、考え方を、ひっくり返して取り除け。今までの生活、心の中の偶像をみな、その根っこを白日のもとに曝して、枯れるにまかせよ。4節:割礼とは男性の性器の包皮を取り除く儀式である。外面的なしるしである割礼を守るなら、むしろ、心の包皮を取り除け。心を包む古い考え方、生まれつきの考え、肉の思いを取り除け。そうでないと、主の憤りが火のように燃えあがり、だれも消すことができない。5-17節(前代未聞の災禍):7節:北から来る獅子とはバビロンの軍勢のこと。10節:エレミヤ書の特徴のひとつは、このようにエレミヤが、折に触れて、自分のことばを記していることである。11節:「娘」とは「民」のことである。わたしの民とは南ユダの民のこと、13節:「それ」「雲」とはバビロンの軍勢のこと。ダンはイスラエルの最北端の町、エフライムとは南ユダの北端のこと、つまり、北から敵が攻めてくる。16節:包囲する者とはバビロンのこと。19~31節(審判の光景):19節:エレミヤの嘆き。23節:不気味な光景、ここからはエレミヤが主によって見せられた幻の内容を語っている。31節:わたしとは主なる神のこと。シオンの娘とはエルサレムの住民のこと、殺す者たちとはバビロンの軍勢のこと。
今日の聖書箇所から教えられることは、主の預言によれば、イスラエルあるいは南ユダが、恋人のように慕った周りの国々(またその偶像)は、結局、イスラエルや南ユダを虐殺する者たちであることを知るようになる、ということです。私たちクリスチャンも、世の中の富や楽しみなどが、恋人のように見える時があるかも知れません。しかし、それは私たちを救うものではなく、わたしたちをこの世に縛り付け、永遠のいのちから引き離す罠となる。それが鋼鉄の鎖となるまでになったら、どうしようもない。主にあって、心の中の古い考え、肉の考え、高慢、自己中心、欲望などを天地返しをしてもらって、きょうの生活のただなかで、主をお迎えし、主のみことばを実行しましょう。
清宣教師