15章の1節は、14章の流れの続きです。エルサレムに対する主の裁きの預言を委ねられたエレミヤは、そのあまりにもひどい裁きに苦悩します。預言ですから、まだ成就しているわけではありません。しかし、預言者エレミヤは、預言をするとき、それがあたかも成就したかのように、その光景が見えるかのように苦悩する人でした。主から、すでに、14章11節で、「この民のために幸いを祈ってはならない」と言われていました。しかし、その預言の厳しさのゆえに、夜も昼も涙を流しました(14章17節)。そして、自分の罪、民の罪、民の悪、民の咎を、主の前に告白し、ひたすら、主の御名のゆえに赦しを求めて、そして、私たちの唯一の望みはあなたにあります、と言って執り成しの祈りを捧げました(14章20節―22節)。それに対しての主の答えが、この15章の1節です。もう執り成しの祈りをしても、わたしは聞かない。「エレミヤよ。あなたに何か不足しているから祈りを聞かないのではなく、たとい、モーセやサムエルが祈ったとしても、この祈りは聞けないのだ」と言われました。それは、南ユダの民が主を捨てたからです(15章6節)。15章の1-4節は神からの答え。5節―9節はエルサレムの悲しい運命。10節―21節は、エレミヤと神との問答です。少し補足しますと、10節はエレミヤの嘆き。11節は主のことば。「あなた」とはエレミヤ。「敵」とは南ユダの民たち。12節―14節は、神のことば。「あなた」とはエルサレム。15節―18節はエレミヤの祈り。「私」はエレミヤ。「私を追う者たち」とは南ユダの民。19節―21節:主のことば。主はエレミヤを召したときのみことばをもって、エレミヤを奮い立たせています。そして、再献身を促しています。
今日の聖書箇所から教えられることは、15章の16節に、「私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。あなたのみことばは、私にとって、楽しみとなり、心の喜びとなりました」と記されています。涙の預言者、ひとり孤独な預言者エレミヤですが、主のみことばを食べた時、つまり、自分のものとして完全に消化した時、不思議な喜びが自分のものとなったのです。私たちも、この経験を自分のものとすることができます。たとい、だれにも相談することが出来なくても、主のみことばを食べるなら、素晴らしい指針と喜びが与えられます。
清宣教師